利益(薬)と不利益(毒)は、転化することもなくはない(両価的である)

 多くの人がある方向に向かっている。そうしたなかで、一人だけそれとは逆の方向に向かう。多くの人が右に向かっているとすれば、一人だけあえてそれとは逆の左に向かうのである。こうしたことが、投資の世界では重要だと言われているそうだ。心細くはあるが、利益を得るためにはこのようなことを心がけるのがよいわけである。

 多くの人がある方向に向かっていて、自分もまた同じくそれに従うのであれば、投資の世界ではあまり利益を見こみづらいのだという。あえて多くの人とは逆の方向に行くことができないとならない。中心ではなく、周縁や辺境に自分の身を置くようなふうだろうか。

 多くの人がある方向に向かっているとして、それに同じように従っていれば、無難であることはたしかである。しかしそうではなく、それとは逆の方向に向かうのであれば、それだけ危険さがあると見なせる。危険さがあるのは、裏を返せば、それだけ利益が見こめるおそれがある。もっとも、確実に利益を得るというわけには行かないのはたしかだ。そのうえで、一般論でいうと、危険さと利益は比例するのがあり、無難であればそこから得られる利益はそれほど高くはない。

 投資の世界とはちがうけど、報道についてもそうしたことが当てはまりそうだ。時の政権は多くの有権者から選ばれているわけだけど、それはあくまでも相対的な量にすぎないのがある。たとえ政権ににらまれるおそれをおかしても、その危険さをとることによって、得られる利益がある。こうした危険さをとるのは、報道の自由が保障されていないとできづらいことではあるだろうけど。

 利益と一と口にいっても色々あるわけであり、みなが今やっていることややろうとしていることをよしとする、大勢に従うようなものもあるだろう。そうしたのとは別に、投資の世界をふまえてみると、多くの人がよしとするものとはちがう、逆の方へあえて行くことによって見こめるものもある。こうしたことが許されるのであれば、個性を認めることにつながる。これは、みなと同じである同一さをよしとするのとはちがったものである。