犯罪や不正という点でいうと、一政治家や一報道機関もそうだけど、それより大きなのは国家(政権)によるものなのがあり、大きなものを見逃すわけには行きづらい

 彼らは犯罪者だと思っている。そのように言われたのは、自由民主党石破茂氏や、希望の党玉木雄一郎氏や、立憲民主党福山哲郎氏である。この三人を犯罪者よばわりしたのは、日本維新の会足立康史氏である。

 足立氏が石破氏らを犯罪者だと思っているとしているのは、友敵論でいうと敵と見なしていることにもよりそうだ。こうして敵と見なしてしまうのだと、ごく単純な二元論となってしまう。そうではなくて、とり沙汰されていることの真相がどうだったのかが明らかになったほうが、みなの益になるのがあるから、そちらの方へ力を向けたほうが生産的なのがある。

 石破氏らのほかに、足立氏は朝日新聞の記事の内容にたいしてねつ造だと言っている。石破氏らを犯罪者としている理由と、朝日新聞の記事をねつ造だとしていることとは、ややくいちがっている。これがどちらも同じ理由によっているのであれば一刀両断できるわけだけど、それぞれにちがった理由によっているのだから、どれもを虚偽だとしてしまうのはいささか乱暴だ。

 足立氏のよって立っている視点がまったくもってまちがっているのかどうかは定かではない。そうしたのはあるが、自分のよって立っている視点を確実なものとしてしまうと、それを絶対化することになってしまう。このようにすると、自分の視点が正しく、他はまちがっているとなりかねない。そうではなく、自他の視点を相対化することで、一つの定点をもつのができればのぞましいのがある。どのような視点も、さまざまな遠近法による解釈にすぎないものである。

 自分の視点に確証をもちすぎてしまうと、独断になりかねない。そうした独断から偏見が生み出される。犯罪者やねつ造だと決めつけてしまうのは、偏見によっているのだとしたら問題だ。そこは慎重に見てゆかないとならないものである。慎重に見てゆくとは、認知の不協和があったとしても、それをたやすく解消しないようにすることをさす。不協和となっている対立する認知があるとして、そのどちらが正しいのかはすぐには決めがたい。

 犯罪者だとかねつ造だとかと決めつけてしまうようだと、必然の水準で見ていることになる。しかしそれとは別に、可能性の水準で見られることもたしかだ。可能性として見れば、必然として決めつけられない。必然ではなければ、犯罪者でなく、ねつ造ではないのも真実だ。

 石破氏らを犯罪者だというのについては、制度としての政治と金の問題についても見てゆかないとならないのがありそうだ。これは石破氏らにかぎらず、政治家の人たちのすべてに当てはまるものであり、二重基準のようになってしまうのであればまずい。

 時の権力を信頼しすぎてしまうと専制主義になってしまう。そうした専制を避けるためには、たえずきびしく監視しつづけて行かないとならない。主権は(国家にではなく)国民にあるわけだけど、それを代表してになうのが国家の機関や政権である。そこには代表しているがゆえの避けがたい嘘の横行がある。道徳の崩壊であるモラル・ハザードもおきてくる。

 足立氏が自分による主張をうったえてもよいわけだけど、それは一方的なものであるのではなく、双方向的なものであるほうがよいものである。それに加えて、表現の自由には公共の福祉が関わるのがあるから、最低限の倫理観をもつこともいるだろう。さらに、認知の歪みやまちがいを避けては通れないわけだから、自己修正がよくきくようであることもいる。こうしたことに気をつけられれば、のぞましい社会関係(パブリック・リレーションズ)が築けるのがある。