朝日新聞は、政権にとっての(ある種の)関係先の一つであり、それ自体で単独であるとは言いがたいのもありそうだ(議会外野党として機能している)

 保育園落ちた、日本死ね、になぞらえる。それで、朝日新聞、死ねと言う。これは、日本維新の会の所属議員の足立康史氏によるツイートである。朝日新聞は社説で加計学園について触れていて、一件落着は許されぬとしている。この意見に不満をいだいたことから、朝日新聞、死ねのツイートをしたようである。

 なぜツイートの中で死ねの言葉を使ったのかということで、足立氏はこのように述べている。死ねという言葉は私自身は許容されると思っていないが、今の国会と日本社会は是としているようなので使った。毎日新聞からの取材の中でそう話している。

 朝日新聞、死ね、のツイートを見かける。それで、ああ、これは保育園落ちた、日本死ねを真似しているのだな、とはたして思いつくのだろうか。最後の死ねの箇所しか同じではないから、思いつくのが易しくはないような気がする。

 今の国会と日本社会が死ねの言葉を言うのを是としている。この現状認識がおかしいのではないか。現状の認識がまちがっているおそれがある。もし是となっているのなら、建て前がなくて本音が大手を振ってまかり通っていることになり、風紀が乱れていて退廃してしまっている。正義が死んでいる。

 今の国会と日本社会のあり方として、死ねを言うのが是とされているのだとしても、それで自分もまた是としてしまってよいものだろうか。そうしてしまうと、状況に流されてしまっていることになる。それに加えて、自分のせいではなく、今の国会と日本社会のせいにしてしまうわけだから、自分が悪いのではないというふうにも聞こえる。

 保育園落ちた、日本死ね、では、何々だから、何々、という形にいちおうなっている。しかし、朝日新聞、死ね、では、たんに嫌悪の表明にしかなっていない。形として、何々だから何々というふうにしたほうがよさそうだ。それにしても、死ねという結論はちょっとおかしいわけだけど。冷静にとらえられるとすれば、そうできそうだ。

 たんなるあげ足とりや、つっかかりなだけなのであれば、記事の内容が批判されてもしかたがない。それであったとしても、死ねとまでは言われることはなく、そこは反論をして事実を示すなり、真相を明らかにするために協力するなりといったことをする。そうしたことに努めるのではなく、たんに死ねと言ってしまうのではまずい。

 加計学園森友学園の疑惑について、一件落着させてはならないと朝日新聞の記事ではしている。この記事に意義があるとすれば、一連の疑惑について、もっと知ることをうながしているところにある。これについて、死ねと言ってしまうと、知ることを拒むのに等しい。そうして拒むのではなく、さらにもっと深く知ってゆくのであってもよいはずだ。そのためには、目と耳と口を閉ざしてしまうのではなく、それらをなるべく開くべきである。中途半端でうやむやのままにして終わりでよいのなら、次もまた同じようなことがくり返されてしまうかもしれない。

 太鼓もちや幇間(ほうかん)であっては、権力の奴隷となりかねない。そうしたようではなく、反対勢力をもって任ずるようなのが役目としてあることは欠かせないものである。甘いのではなく、苦いのが薬になる。少しは甘いものがあってもよいわけだけど、それはよい薬であるとは言えないものだろう。過去のあやまちや失敗なんかの苦み(ペーソス)が教訓となるのもある。風化や忘却をさせなければの話ではあるけど。