政治的公正において、公正でないと見なされたのかもしれない

 処刑されるくらいなら自決をする。それが美学なのだという。この処刑とは、米国美容外科学会が、日本の医師を会から追放するというものである。そうして追放されるくらいであるのなら、自分から退会するということで、それを自決としている。

 この日本の医師とは高須克弥氏のことである。米国美容外科学会はなぜ、会の創設メンバーでもあるという高須氏を追放しようとするのか。それは、米国のユダヤ人の人権団体であるサイモン・ウィーゼンタール・センターが関わっている。第二次世界大戦において、ドイツのナチスユダヤ人などを大量に虐殺したわけだけど、その通説を否定するのがあってはならないというわけである。歴史修正主義になりかねない。

 アウシュヴィッツ以後において、詩を書くことは野蛮である。哲学者のテオドール・アドルノはそうしたことを言っているそうだ。この詩とは、詩だけでなく文化一般をさす。アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑になった、とも述べている。ナチスがきわめて非道な蛮行をしたことは通説であるのはまちがいない。いっぽうで、そうしたのとはちがう見なし方もある。それは個人または集団における信念であり、そうした志向性である。その個人や集団による信念であるところの志向性が、そこでは正しいものであるのだとしても、だからといって世界の中で広く正しいことには必ずしもつながらない。

 話は変わってしまうけど、少し前におきたものである、日本の理化学研究所での、STAP 細胞の問題では、STAP 細胞を研究者が発見したとしていた。しかしそれは客観で科学として証明できるまでにはいたらなかった。これは、STAP 細胞の発見者の個人による信念の志向性が、科学の世界の中で真実であるとなるまでにはいたらなかったことをあらわしている。

 話はもとに戻り、米国美容外科学会が決定したとされることについて、高須氏は気分が悪いと述べている。名誉が傷つけられたとしている。そして、会から追放される前に自分から退会することで、会の面子がつぶれただろうと見なす。

 いきなり会から追放してしまうのだとすれば、それはツイッターでいえば、いきなりユーザーのアカウントを凍結するしうちとちょっと似ているかもしれない。その点について、手続きとしてどうなのかというのはありそうだ。

 この件と直接にはあまり関係がないことかもしれないが、高須氏が何を大切にしているのかが(はたから見たのにすぎないけど)うかがえるのがある。それは、自尊心であり名誉であり面子であるようだ。そうした体面なんかを大切にしている。名(な)といったらよいものかもしれない。そうしたのを大切にするのは誰しも多かれ少なかれあるのはたしかだ。そのうえで、おそらくではあるが、国家主義による、国の自尊心とか名誉とか面子とか体面を重んじるのにつながっていると見なせる。歴史観でいうと、栄光をとり、罪責をこばむ。そうしたのを重んじすぎると、認知が歪みかねないから、その点に少し気をつけられればよさそうだ。