中国にのっとられたらというのも分からないではないけど、敵と決めつけずに、友とすることもできないではない(関連づけを見直してみる)

 もし沖縄が中国にのっとられたらどうなるか。そうしたら、沖縄で新聞記者として活動している人の娘さんが、中国人の慰みものになってしまう。そうしたことを、作家の百田尚樹氏は講演で言っていたそうだ。沖縄タイムスの記事に載っていた。

 沖縄がもし中国にのっとられたら、という仮定の前に、すでに部分的にアメリカにのっとられてしまっているのではないか。沖縄にはアメリカの駐留基地が集中している問題がある。そこでは、日本の法律が通用せず、治外法権となっている。

 仮定の話として、中国にのっとられたらという前に、沖縄ではアメリカの兵隊による女性への性的暴行の被害が生じている。そうした問題をとり上げて、批判することのほうが先なのではないか。アメリカの駐留基地がもしなければ、そうしたことはおこらなかったはずである。

 安全と安心はちがうということで、米国が運用している輸送機であるオスプレイの問題も無視できない。客観的には、ほかの飛行機と事故率はそこまで違わないのだとしても、現地の人にとっては、心理による不安が払しょくできないのがある。そこについては、数値による客観の語りでよしとしてしまうのではなく、現地の人の気持ちにできるだけ寄りそうべきである。

 軍の施設があれば、はたして安全が高まるのか。必ずしもそのように言うことはできない。そもそも、自分の国のではなく、他国の軍の施設があるのは正常なこととはちょっと見なせないのがある。それに加えて、もし自国の軍とその施設があったのだとしても、必ずしも安全が高まるとはいえそうにない。

 基本として軍というのは軍の論理で動くものであり、いざというさいに国民を守るかどうかが定かではないのがある。軍が幅をきかせることで、国民の自由が増えるのではなく損なわれるのもいなめない。かつての日本は、富国強兵をとり、国民の自由をいちじるしく犠牲にして戦争につき進んだことはたしかだろう。

 友敵論で見てみることができるとすると、はたして中国は敵なのだろうか。そしてアメリカは友なのだろうか。ここは疑問符がつけられることはたしかである。必然の次元によって、中国や韓国(や北朝鮮)を敵と見なすのは必ずしも適しているとは言い切れない。可能性の次元もあるからだ。可能性で見れば、友ともなることがあるわけだから、そこは定かではないのがある。

 さまざまな善があるとして、それらは遠近法の解釈による。そのうちのどれがもっとも正しいのかは一概には決めがたいものである。上から下(トップダウン)に見るのとは別に、下から上(ボトムアップ)に見るのがあれば、性急な一般化に待ったをかけられる。性急に一般化してしまうと、出力したものが固定化してしまう。それをずらすには、入力と思考回路を相対化するのがあるとのぞましい。

 中国は敵であるとするのは、一つの出力であり表出である。それを肯定するだけではなく、たまには否定するのがあってもよい。否定したほうが正しいおそれがある。否定することによって、関連づけをあらためる。出力や表出の前提となっている、入力や思考回路に偏りがあるのを見直す。こうした試しをすることが有益にはたらくことも場合によってはあるだろう。