政(まつりごと)は、民の生活を安んじるためにあるものであり、それがしっかりと果たせているのだろうか

 死にたい。そのようなツイートをすると、いいねがもらえるという。世の中には、さまざまな人生があり、さまざまな歩みがあるのだろうけど、死にたいというふうにツイートするのはまったく分からないわけではない(他人ごとのようではあるが)。そこには、本音が少なからずあり、そのほかに色々な内面の動機がからんでいそうだ。

 神奈川県の座間市のアパートで、九人もの切断された遺体が見つかった事件が報じられている。女性が被害者となった。容疑者の男性は、ウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービスを使い、被害者と関わりをもったのだという。

 この事件について、自由民主党山本一太氏は、ゲーム感覚による犯行だとしている。たしかに、ゲーム感覚のようなところはありそうだ。そして、最近のゲームやアニメが、残忍な描写が多いので、その影響をほのめかしていた。

 ゲームやアニメの影響といえば、ゲーム脳の説明が思い浮かぶ。今回の事件についていえば、こうしたのからの影響というよりは、もっと他のところの影響がからんでいるのではないかという気がする。加害者や被害者は、社会の中での疎外があったのだろう。加害者は、そうした疎外が行きすぎて、狂気にまでいたってしまったのではないか。

 現代の商品社会では、人間が商品と見なされる。物のようにして、お金に換算できるような量としてだけとりあつかわれてしまう。賃労働での労働者のあつかわれ方だ。質は切り捨てられることになる。ちまたでは、商品語が飛びかっている。ものを売るための売り文句だったり、買うときの文句だったりが、盛んにやりとりされる。それは、商品としての経済のよさを主としたものである。偶像であるといってもさしつかえがない。

 必ずしも今の与党である自民党のせいばかりとはいえないにしても、今回の事件では、失政が原因となっているのがあるのではないかという気がしないでもない。底辺や貧しい人たちが経済的に潤っていれば、死に魅せられてしまうのを防げたのではないか。もっと生きていたいと少しでも思えたのではないか。経済で見たとすると、そういうことが言えるのがありそうだ。

 現実のあり方が硬直しすぎてしまっているのかもしれない。現実が硬直しているので、個がたちうちができづらい。押しつぶされてしまう。人によって現実の感じかたはちがうだろうから、一概にこうだとは言えないのがあるだろうけど、とりわけ弱者にたいしてはあたかも壁のように立ちふさがってしまうのが無視できそうにない。身体感情が充実するような、生きる実感をもちづらい。砂を噛むようなひどく散文的な現実となる。灰色の道がずっとつづいている。こうした見かたは、あまりにも暗いものかもしれないけど、人によっては必ずしも非現実とはいえないかもしれない。