十ぱ一からげに、共産党およびそこに票を入れる人をひとくくりにするのはどうなのか

 共産党に票を入れる人は反日である。そうした内容の記事をブログに書くことで、八〇〇円の報酬を得られる。この発注をした会社はクラウドワークスというそうなんだけど、ここには内閣府や省庁が筆頭顧客として名を連ねているという。もしこれが本当なのだとすれば、あまりのぞましいこととは言えそうにない。

 これこれこうした内容の記事をブログに書いてほしいというのは、一つの発注なわけだから、それを引き受ける人はそのまましたがうことになる。そうしたふうであれば、はじめから結論みたいなのが決まりきってしまっている。意外性がない。

 はじめから結論が決まっているのではなくて、劇みたいにしたらどうだろう。共産党に票を入れる人は反日であるという主張があるとして、それとは反対のものもくみ入れる。そうすると主張が二つになり、それらがぶつかり合う。そうしたぶつかり合いによって浮かび上がってくる意味みたいなのもありそうだ。

 共産党についてを語るのであれば、じっさいの共産党に取材に行くなんていうのがあってもよい。当事者に話を聞いたほうが、聞かないで記事をつくるよりも少しは公平である。共産党に票を入れた人にも取材をして、その人がいったいどういうことで意思決定をしたのかをたずねてみる。そのようにたずねてみることで、新しく分かってくることもありそうだ。

 せっかくなら、手間をかけて記事にしたほうがよい。八〇〇円の報酬ではなくて、もうちょっと高く払う代わりに、質を高めてみるのである。そんなふうなことができたらよいのではないか。大量生産大量消費みたいなことではなくて、少量だけど掘り下げるようにする。そうしたほうが、印象操作につながりにくくなる。両論併記なんかもとられればよさそうだ。内閣府(と省庁)がからんでいるということで、ウェブで偏った情報を流すのに加担してしまっているのだとすれば残念だ。

 反日とは一つの分類であり、分類とは解釈である。その解釈には主観が入りこんでしまっているのはあるだろう。反日とはおよそ実体のあるものとはいえず、観念もしくは表象(イメージ)の域を出るものとはいえそうにない。これは戦前や戦時中における非国民のレッテルと通ずるものだと見なせる。そうしたレッテルを貼ってしまうようだと、それを貼られたものがラベルづけされることになり、ラベルがひとり歩きしかねない。独断(速断)となってしまうのがある。反日という記号のうわべの印象をうのみにしないで、あらためてとらえ直されることがあればさいわいだ。