加害者と被害者がいて、加害者のほうが優先されるのはおかしいかもしれないが、まちがいなく加害をしたと見なしがたい例もなくはない(真相がわからない)

 性犯罪のとらえ方はむずかしい。そのような気がする。性犯罪の被害を受けた人が、勇気を出して声を上げる。その勇気は尊いことだし意義がある。そして、声を上げてうったえている内容は、基本としてほんとうのことであると信用してよいものだろう。寛容の原則を当てはめると、偽りのことを語っているとする確たる証拠でもないかぎり、信用することができるものである。

 加害者とされる人の立場に立てるとすると、その人はまちがいなく性犯罪の加害をしたといえるのだろうか。この点については、まちがいのない確たる証拠があったり、加害者が自分から認めたのでないかぎりは、えん罪のおそれを完ぺきには払しょくできそうにはない。このえん罪のおそれをどう見なすべきなのだろう。たとえそのおそれがあったのだとしても、性犯罪の加害をしたと見なすのがよいのだろうか。

 加害者がたとえ自分は加害をしていないと言っていたとしても、それが偽りの語りであるとすれば、嘘をついていることになる。そうしてそれを通してしまうと、性犯罪の加害をしたのにもかかわらず、まんまと(またはぬけぬけと)社会のなかで大手を振って生きて行くことができる。これが許されてもよいのだろうか。そうした見かたができるだろう。

 ひんしゅくを買ってしまうかもしれないが、加害者の人権もできるだけ尊重されるのがよいような気がする。(状況証拠とは別に)確たる証拠があったり、加害者が自分から性犯罪をやったことを認めているのでないかぎりは、えん罪のおそれを完ぺきには払しょくできないのがあるからだ。そのえん罪のおそれを重く見ることができる。これは見まちがいの危険さもまたあるわけだけど、その危険さをくみいれつつも、罪を犯していないのに罰を受けてしまうというのができたら防げればよい。

 反転可能性として、視点を入れ替えてみると、もし自分が加害者とされる立場であったのなら、とすることができる。その立場であったとして、性犯罪の加害をしていないとの自覚がありながら、それをしたのだと見なされてしまうのは受け入れがたいものである。これは仮定の一つにすぎないのはまちがいがないことではあるけど、この仮定を捨て切ることはできそうにない。

 被害者のうったえは最大限に尊重されるべきだし、それと同時に加害者の無実のおそれもまた十分にくみとられればよい。もし加害者とされる人が、自分はやっていないと言っていて、なおかつ確たる証拠がないときにかぎられるものではある。こうしたのは卑怯であるかもしれないし、まちがったとらえ方であるかもしれない。それに加えて、そもそも性犯罪がおきないようなふうであるのがいるのはたしかである。