応援しているときに、公共の福祉になるべく気をつけられればよい(単一ではなく複数の人々がいることに少し気をつける)

 がんばれとの声をおくる。その声は、応援している集団にたいして投げかけるものである。それはよいとは思うのだけど、応援している集団にがんばれというのとは別に、ほかの集団を否定してしまうのはどうなのか。それについて、部分的に否定するのなら建設的であるかもしれないのでよいわけだけど、頭ごなしにそうしてしまうのならやっかいだ。

 部分的に否定するのであれば、あの集団のここがおかしいだとかあそこがおかしいだとかして、建設的になることが見こめる。そうではなくて、頭ごなしに否定してしまうのであれば、存在そのものを認めないことになりかねない。そうした動きについては、いさめることがあったらよい。見逃してしまうのではなくて、見とがめるようにする。

 大衆迎合主義(ポピュリズム)では、多元性を否定するようなあり方がとられるのだという。そうして多元性を否定してしまうのは、一元性となることをあらわす。こうなってしまうと、異なったものを認めないような狭くるしいことになってしまう。それだと民主主義もまた成り立ちづらい。自由民主主義では、包摂性に加えて競争性もなければならないとされるようだ。この競争性は、一強のようにしてどこかが一人勝ちをしてしまうのだと不全になってしまうのがある。

 どこか一つの集団にむけて、がんばれとの声援を送ってもかまわない。そうではあると思うのだけど、それと同時に、ほかの色んな集団もまたがんばればよいのがある。ちょっと甘いことを言ってしまっているかもしれないが、そうしたのがあるのではないか。そうしたほうが、競争性がきちんととれるようになる。

 ある一つの集団に利となることが、ほかの集団にとっての害となる。そうしたのがあるとして、それがとがめられることがときにあってもよい。というのも、とがめ立てがないと自己中心になってしまっているおそれがあるからである。中心化をたまにはあらためて、脱中心化することができればのぞましい。ほかの集団もなるべく尊重するようにして、そのうえで自分たちの集団に利となるようなことができればよいのがある。じっさいには難しいのがあるだろうけど、大衆迎合を多少なりとも防ぐためにも、他への敵意とか排斥みたいなのがむき出しにならないようにできればよさそうだ。