へんてこな心得

 生まれつき茶色い髪の毛の生徒がいる。その生徒にむりに髪を黒く染めさせる。なぜそうするのかというと、それがその高校の決まりだからなのだという。そうして髪を黒く染めるのを強いられて、生徒は(ほんらいは受ける必要のない)精神の苦痛を受けた。生徒の側により訴えがおこされて、裁判によって争われることになった。

 その高校には、生徒心得というのがあり、髪が黒くない生徒は黒く染めるようにとのことになっている。髪が黒くない生徒は、黒く染めなければならない。そうしないと不心得となってしまう。この決まりは、もともと髪が黒い生徒はそのままでよいわけだけど、そうでない生徒は黒く染めないとならないのだから、公平とは言いがたい。髪が黒くない生徒にだけよけいな手間をかけさせている。

 高校の生徒心得にある、髪の色についての決まりが前景化されている。その前景化をいったんやめて、後景化させてみる。そしてちがうものを前景化させられるとすると、生徒は生まれもった地毛のままで学校生活をおくることができる、との権利をおくことができる。この権利は認められるのがふさわしいものだと言えそうだ。たとえ地毛が黒くはないのだとしても、それは生徒の責任でもなく罪でもない。ゆえになにか罰を受けなければならないとは見なせない。

 髪の色が黒であるのをよしとするのは、黒ではない生徒をよしとしないことになってしまうのがある。黒ではない生徒に気づかいという意味での配慮があるのはよいのかもしれないけど、過剰配慮みたいなことになると、結果としておかしなことになるのではないか。そのおかしなこととして、ある生徒が生まれもった地毛のままで学校生活がおくれないようなことになってしまう。

 どういった理由でだとか、どういった目的で、髪の色が黒くなくてはいけないのだろうか。そこがはっきりされたほうがよさそうだ。自由主義では、自己決定することがあってよいとされ、これは愚行をするをよいとするものだ。かりに、高校の側の価値観として、髪の色を(黒以外に)染めるのが愚行だと見なしているのだとしても、生徒がそれをするのを許すという手もある。その手を使ったとして、すべての生徒が髪の色を染めるとはかぎらなく、そうする生徒もいるししない生徒もいる、なんていうところに落ちつくかもしれない。それで生徒が満足するのなら、効用の総量は増えそうだ。

 髪の色が黒くあるのがよいとするのは、一つの物語であると見なせる。そうした物語があってはならないとまでは言えないかもしれないけど、大きな物語として一方的に押しつけてしまうのはどうだろう。双方向のようにして、高校の側の気持ちを生徒に伝えて、生徒の側の気持ちを高校が聞き入れる、なんていうふうにするのがよいかもしれない。決まりだからだとか、慣習だからというのは、それが正しいことの完ぺきな確たる理由とはならないだろう。