そのものを言うことになってしまうのがあるから、それよりも遠回しに言ったほうが無難ではある

 排除の語は中立である。それ自体は中立であり、使いかたによってちがってくる。言葉じりを大げさにとらえて批判するのはいらないことである。はたしてこうしたことが言えるのだろうか。そこがちょっと疑問に感じた。

 日本語には仮名と漢字であるとか、和語と漢語といったのがあるけど、排除はこのうちで(どちらかといえば)漢語のほうに当たりそうだ。そのため、硬さとか冷たさを感じさせるのがある。情ではなくて理みたいなのをとることになりそうだ。

 もともと漢語は公のことがらについてを記すのに用いられていたそうだ。そうしたのがあるから、それを公をになう政治家の人が使うことによって、なおさら公の色合いが出てくる。あまり性のことを持ち出すのはどうかというのもあるかもしれないが、男性の論理みたいなのをはたらかせることになりかねない。公はおおむね男性がつかさどってきたのがある。もっとも、性を単純化してとらえてしまっているかもしれないから、あくまでも解釈の一つにすぎないものである。

 排除とは言わずに、ほかのもので言い換えられればそちらを使ったほうがのぞましい。とりわけ人間についてであると、誰しもが(人から)排除されたくはないという心情がある。それをされて快いことはないだろう。人間は社会的な動物だと言われている。そうしてみると、あえて人に向けて排除の語を使うことはない。いらぬ波風を立ててしまいかねないからである。もうちょっと当たりの柔らかい言い方ができるのであれば、それに越したことはない。