個人として面白いというふうに感じるのは悪いこととは言えそうにない

 一部でとり沙汰されていたことの、どこが面白かったのか。このとり沙汰されていたこととは、お笑いコンビのとんねるず石橋貴明氏による、保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)というつくりごとの人物についてである。この人物にふんしたかっこうでテレビに出たことで、一部で波紋を呼んだのがある。それについて言及している記事があった。

 この記事では、石橋氏が保毛尾田保毛男のかっこうでテレビに出たことが、どのように面白かったのかが語られている。その面白さについて語っているのは、感想としてはよいとは思うのだけど、別の点をとり上げることができる。その点とは、面白くはなかったというものである。つまり、面白さによって肯定するだけではなく、そこに否定の契機があることが要点としてあげられるわけである。肯定だけで見てしまうと、否定の契機がとり逃されてしまう。

 石橋氏ががさつな神経をもった人だから、保毛尾田保毛男のかっこうをしてテレビに出たのにちがいない。そう見なすのだとすれば、石橋氏のことを、がさつな神経をもった人だと決めつけていることになる。そうして決めつけてしまうのはよくないことだ。ただ、問題となるのは、がさつであるかどうかではない。たとえ石橋氏ががさつでなかったとしても、保毛尾田保毛男のかっこうをしてテレビに出たことの問題が(一部から)問われるのには変わりがない。

 保毛尾田保毛男のかっこうでテレビに出たことによって、性的少数者(LGBT)の人たちへの関心が高まったではないか。そうして関心が高まったのだからよかったことになる。はたして、このように言えるものなのだろうか。もし言えるとするとしても、それは結果論にすぎないし、そうした結果が出ているのかはちょっといぶかしい。問題があるとして、たまたま関心が引きおこされたという偶然が大きそうだ。また、性的少数者への差別や偏見がそれによって少なくなったとは言えないだろう。

 いっしょに番組に出ていた、ビートたけし氏のふんする鬼瓦権造は悪くはないのか。これについては、問題の性質がちょっとちがうから、別なものであると言えそうだ。保毛尾田保毛男は、ホモというふうに名前の中に入っているのがあるけど、鬼瓦権造はそういうのがとくにあるわけではない。

 キャラクターは架空のものであり、現実とはまたちがう。そこがやっかいな点である。キャラクターにふんしているから許されるというのはときには通じないものである。キャラクターはあくまでもネタだから、現実とはちがうのですよというのが、(一部には)通じないこともあるわけである。ここには、ネタをつくることによる、対象化や形象化の行ないがかかわる。ネタとしてキャラクターをつくるのは、対象化することなわけだけど、それは何かを仕立てあげることでもある。その仕立てあげ方が、まちがってつくってしまっていないという保証はない。