組み体操へのコミットメントの上昇(ディタッチしてもよいかもしれない)

 運動会で組み体操をする。それで事故がおきて、命を失った。その犠牲となったのは、大切な一人息子だった。二十八年前にそうしたことがあったそうなんだけど、その息子さんの両親が声をあげている。新聞の記事に載っていたので見かけた。

 組み体操は、生徒がやるものなわけだけど、それを教師がやったらどうなのか。そのように感じた。教師が組み体操をやることで、その危険性を身をもって確かめるべきである。何かあったらまずいから、本当にやらなくてもよいけど、それくらいの心づもりがあるのでちょうどよい。教師がやらせる側で、生徒がやらされる側というふうに、立場が固定されているのはちょっとおかしい。

 組み体操をやる理由とは何なのか。それが問い直されるのがあってもよさそうだ。それなりの危険さはあるけど、そのぶん得られるものも少なくない。そうした理由があるのかもしれない。しかし、その理由は絶対のものとは言いがたいのもたしかだ。

 やるのが前提であるのではなくて、やるかそれともやらないかをみんなで一緒に話し合う。そのようにすれば、それが一つの教材となる。やるかやらないかを話し合うなかで、その過程に少し時間をかけてみる。結論ありきではなくて、可能性の次元で見てみるのである。

 やるかやらないかではなくて、やるのが前提となる。そうであるとすると、そこでは参照点の低さがはたらいているおそれがある。参照点の低さとは、危険さを低く見積もっていることをさす。まあ大丈夫だろう、なんていうふうな見なし方だ。しかしこの見なし方は確かなものとは言いがたい。参照点をもっと高くするのがあってもよい。いろいろ高さを変えてみたほうが、きちんとした理解につながる。

 今まで慣習としてやってきているものであっても、それだからといってやるのがのぞましいとは限らない。あらためて立ち止まり、省みることがあってもよいはずだ。それぞれの意向を無視してやるようなら父権主義(パターナリズム)である。そうしたふうにするのではなく、もっと開かれていたり、自分で決めるようであったりしてもよい。(日本の)学校という場ではそうしたあり方は難しいかもしれないけど、閉じてしまっていたり、外から決めたものを押しつけてしまったりするのだと支配的な物語となる。そうしたのをそのまま受けとらず、いったん留保できるような自由があったほうが、体操することにつながるのがある。組み体操を柔軟に見てみる、といった体操である。