リベラルの偶像(イドラ)

 リベラルは、多義的である。色々なものがあるというのである。かりにリベラルを上位の概念であるとすると、その下位にくる概念がいくつかある、といったようであるそうだ。

 リベラルは多義的であるため、そこをあらかじめ押さえてかからないと、多義性の誤びゅうにおちいりやすい。あえて自分から誤びゅうにもちこもうとするのでないかぎり、そこを避けたほうがよさそうだ。

 多義的な語であるのを押さえないと、擬人化によるキャラクター化がされてしまう。これは、過度の単純化や過度の一般化をしているのをあらわす。そうした単純化はできるだけやらないほうがのぞましい。

 歴史の流れの中で、その意味がかなり変わっていっている。経済でいうと、市場による取り引きをよしとするのがまずある。そこから、ニュー・リベラリズム新自由主義(ネオ・リベラリズム)に大別できるようになる。大づかみにいうと、ニュー・リベラリズム大きな政府で福祉を手厚くする。新自由主義は小さな政府で福祉を手薄にする。

 リベラルへの批判は、もっぱらニュー・リベラリズムへのものであるそうだ。なぜ批判されるのかというと、大きな政府で福祉を手厚くすると、国の財源が苦しくなってしまうせいである。そうしてリベラルを批判するのが小さな政府による新自由主義である。こちらは規制を緩和して、税をあまりとらないようにしようという動きだ。少しややこしいのが、新自由主義もまたリベラルのうちの一つであり、なおかつ新自由主義にもまた厳しい批判の目が一部から向けられている。

 政治では、自由民主主義(リベラル・デモクラシー)というのがあるそうだ。これは、議会制と立憲主義をよしとするものである。さまざまな政党が、色んな民意をすくいとることによって、どこか一つのところだけが強くなってしまうのではないような多様なあり方が理想となる。それに加えて、どこか一つのところだけが強くなり、そこが暴走するのを防ぐために、立憲主義による歯止めがきちんととられるのがないとならない。

 絶対に正しいということはできないのはまちがいがない。そのうえで、研究によっては、ニュー・リベラリズムによる社会民主主義がもっとものぞましいとするものもある。福祉が手厚いほうが、国民にとって益になるのが大きいそうなのである。そのかわり税も高くなってしまうわけだけど、きちんとした目的に使われているという合意があることで成り立つものだろう。

 リベラルとは、大動脈のようにではなく、毛細血管のようなものとしてとらえたほうがよいのかもしれない。大動脈のようにとらえてしまうと、いろいろな立場があるのをとり逃してしまう。大きな物語ではなく、小さな物語として見ることができる。または、開かれたものとして見ることができそうだ。何か一つの善を頭から押しつけるといったものではないのがある。

 リベラルは嘘をつく。そうしたことが言われている。それについて、そもそも嘘には二つあるとできるそうで、うつす嘘とつくる嘘である(仲村祥一氏による)。このさい、リベラルによる嘘があるとして、それはうつす嘘だとはいえそうにない。それをうつす嘘だと見なしてしまうとちょっと的はずれだろう。というのも、理想を語っているものといえるからである。現実を写そうとするものではない。つくる嘘であるにしても、あるべきのぞましい方へ向かってゆこうとするのなら、それはそれでまったく否定の価値をもつものとはいえそうにない。