演説における、信号(シグナル)と雑音(ノイズ)の割り合い

 黙っておれ。自由民主党二階俊博議員は、演説のさいにやじを飛ばしてきた聴衆にそのように言ったという。選挙の候補者として、自分が演説をしているときに、聞いている人がやじを飛ばしてはならない。それはけしからんことである。

 演説をしている候補者に向かって、なぜ聞いている人はやじを飛ばしてはならないのだろう。そのやじの内容が、それなりに中身のあることを言っているのだとすれば、ほんの少しくらいは耳を傾けてもよいのではないか。内容の点でいえばそう言えないでもない。しかし、形式の点もまた無視できそうにないのがある。

 演説が成り立つためには、雑音(ノイズ)が排除されていないとならない。雑音がとり除かれていることによって、候補者は心おきなく演説ができるのである。もっとも、そうであるからといって、候補者による演説がすぐれた内容であるのを保証するものではない。

 はたして、候補者による演説の価値と、雑音の価値とを比べてみると、どちらがより上なのかは定かとはいえそうにないのがある。もしかしたら、雑音の価値のほうが上であることもないではない。

 いたずらに雑音を擁護してしまってはいけないかもしれない。それというのも、候補者による演説は秩序であり、聞いている人からのやじである雑音は混沌と見なせるからだ。そういうふうに見なせるのはあるが、しかしそれで終わるとは言い切れない。聞いている人が飛ばすやじは、主権者であり有権者である国民(の一部)からの生の声であるのもたしかだ。候補者は、その代理でしかない。

 もともと秩序は混沌から生まれてきたものであるとできる。混沌とは雑音である。そうしてみると、雑音とは秩序への本源からの批判の声であるともできる。その批判の声を排除するのが、雑音をとり除くことにほかならない。そのように言うことができそうだ。そのさい、とり除かれる雑音とは、秩序のにない手にとって都合の悪いものの隠ぺいとなることがある。

 やじを飛ばしてくる人に向けて、黙っておれと言った二階氏のあり方は必ずしもまちがったものとはいえそうにない。演説であるのなら、黙って聞いていることはいるものである。しかしそれと同時に、どうしても黙ってはいられない、といった一部の聞き手の心持ち(人情)もあることはたしかだ。ほめられたこととは必ずしも言えないかもしれないが、顔を見ながら直接に不満をぶつけたいのもある。接触する機会がないせいだ。

 演説をする候補者と聞き手との関係は、それを逆転させることもできる。といっても、あくまでも仮定の上でということだけど、聞き手が演説をして、候補者が聞き手となる、といったふうになる。図と地が逆になる。ふつうに行なわれるように、候補者が演説をして、聞き手がそれを聞くというのは、あたり前のことではあるけど、あくまでもしかけの一つ(一面)でしかない。ちょっとうがちすぎではあるかもしれないが、そういうことが言えそうだ。演説者と聞き手は、関係によるので、役割(role)を転じることもあったら少し面白いかなという気がする。