停滞と反動形成(たんなる破壊)

 停滞したあの時代に、あと戻りさせてはならない。私たちは結果を出して行く。自由民主党安倍晋三首相は、このように訴えている。停滞したあの時代とは、具体的にいつのことを指しているのだろうか。そして、それはなぜそうだったのだろうか。そういったつめた考察がないとなんとも言えないのがありそうだ。

 今まさに思いっきり停滞してしまっている。そうしたことも言える。これはあくまでも一つのかりの見かたにすぎず、絶対に今が停滞におちいっているということはできない。そのうえで、かりに今が停滞におちいっていると見なすと、その原因と察せられるのは、安倍首相が首相の座におさまっていることにあるだろう。首相の座をほかの人にゆずれば、停滞が解かれるのが見こめる。新しい風や空気が入ってくることになるからだ。窓を閉ざした部屋のように、空気の汚れやほこりがしだいにたまる。政権の中に、乱雑さ(エントロピー)や腐敗はどうしてもたまってゆくものだろう。たまりにたまった乱雑さをどうするのかで、あとにつづく人はおそらく大変だ。

 今まさに停滞してしまっているとすると、その原因の一つに、酔ってしまっているのがあげられる。為政者が自分たちの効力感に酔っているのである。そうして気持ちよくなる。これが停滞をまねいてしまうことになるというわけだ。こうした筋書きはあくまでも一つの見かたにすぎないものではある。そのうえで、停滞から脱するためには、気持ちのよいうわべの神話による酔いから覚めないとならない。幻想の効力感から覚めて、現実の無力感から出発するようにする。それも一つの現実主義のあり方だろう。

 停滞したあの時代にあと戻りしないようにする。そうしたことを意識するよりかは、むしろ停滞すらできずに、ずるずると後退していってしまうことを気にしたほうがよい。かりに後退していってしまうのだとすれば、それをごまかさずに明らかにしてくれたほうが親切であるかもしれない。見せかけだけの大国主義をあらためて、徐々に身の丈に合ったようにしてゆく。そんなふうにするのは、絵に描いたようにうまく行くものではないだろう。少なからぬ抵抗感もある。ただ、超少子高齢の社会の深刻さは待ったなしである。

 停滞したあの時代にあと戻りしないようにするとはいっても、ではこれから先にすごくよい時代が来るのかといえば、それはあまり大きく期待することができそうにない。逆に、停滞したあの時代が、今から思えばとても懐かしいといったことにならないとも限らないのがある。そうして懐かしさをおぼえることになるのは、たとえば(決しておきてほしくはないことではあるが)不慮の大きな自然災害に見まわれたり、国家財政が破綻したりすることもないではないからだ。そんなことにはならないと、いったい誰が完ぺきに保証できるだろうか。いざとなったら誰も責任をとりはしないのが本当のところなのではないか、とつい懸念してしまう。備えがきちんとできているとも見なしづらい。なぜ備えがきちんとできていないのかといえば、そんなに危機だとは見なしていないせいがある。軽んじているのである。そうではなくて、重んじたほうがよいような気もする。そうしたほうが、手ぬかりが少し防げるのがあるからだ。