いじめがおきたのは必然ではないとすると、別の結果が十分に見こめたのがある(いじめがおきないという結果)

 いじめでは、いじめた方に全責任がある。しかし、いじめられた方にも原因がある。こうした意見があった。このさい、いじめられた方にも原因があるというのは、すべての原因ではなくて、一部は原因がある、ということだろうか。

 実証として、いじめがおきたのを見る。そうして見ると、いじめられた方にもほんの少しは原因がある、と言えるおそれがあるかもしれない(場合によっては)。しかし、実証ではなくて、そもそもなぜいじめがおきたのかを見ることがいりそうだ。そこには禁止の侵犯が少なからずあるのではないか。やってよいことではないはずだ。

 いじめと一と口にいっても、じっさいには色々なものがありそうだから、それぞれでちがうものだろう。そのうえで、そこでは強者が弱者に力をふるうのがふつうである。そのさい、弱者は可傷性(バルネラビリティ)をもつ。または、贖罪の山羊(スケープゴート)となってしまう度合いが高い。

 たとえ弱者であっても、自由をもつことは保障される。これは、不当な干渉を外から受けない自由である。もし不当な干渉を外から受けてしまうとすれば、自由の侵害となる。最低限の自由を侵害してしまうのだから、それは悪いことであると言ってよい。

 いじめられたいとのぞむ人はいるのかと言えば、おそらくそのような人はいないだろう。とすると、本人がいじめられたくはないとのぞんでいるのにも関わらず、それがまったく無視されてしまうのはおかしい。いじめられたくはないとのぞんでいるのなら、それはきちんと聞き入れられるべきである。大きな声を出さず、内面の声であったとしても、それが軽んじられてよいことにはなりそうにない。

 建て前ではあるかもしれないけど、いじめがおきるのを受け入れてはいけないのではないかという気がする。受け入れてはいけないとはいえ、せち辛い現実にあっては、どうしてもいじめはおきてしまうものではあるかもしれない。そうはいっても、そこで犠牲となるのはおおむね弱者であると見なせる。弱者が犠牲となるような社会ははたして生きやすいのかとか、息苦しくないのかといえば、そうとは言えそうにない。全体にはね返ってきてしまうのがありそうだ。めぐりめぐって、われわれ自身の首をしめることになってしまう。