現実が抱える問題は、現実とのずれがなくなっても解決しないような気がする

 憲法九条と、リベラリズムの死。こういう題名の記事を見かけたんだけど、そもそも憲法九条とリベラリズムは生きものではないので、死なないのではないか。擬人化してしまうのはどうなのだろう。擬人化とはキャラクター化でもある。

 日本型リベラルというのがあるのだとしても、それとは別に、日本型現実主義もまたある。現実主義だといっても、それは日本型であるおそれが小さくない。なので、リベラルだけをいちがいに日本型だとして批判することはできづらい。

 日本型現実主義とは、現実をきちんと分析することなく、皮相となるものである。おもて向きを見るだけでよしとしてしまう。広く見たり、深く見たりすることに欠ける。そうしたあり方なのだそうだ。すぐに一つの結論を出してしまう。

 日本型現実主義の難点の一つは、現実(事実)から価値を導出してしまうきらいである。これは、かくあるからかくあるべしを導く、自然主義的誤謬となってしまうものである。現実と価値を一元なものとするおそれがある。そうして一元なものとしてしまうのではなく、現実と価値を分けることで、現実を相対化するほうがときには有益だ。

 かりに憲法九条信仰があるとして、そこでは憲法九条が真理となる。いっぽう、日本型現実主義においては、表面的に受けとられた現実が真理となる。そうした点では共通しているところがある。

 自分が出発点として、現実を見る。そのさい、出発点となる自分は純粋で偏りのない(少ない)ものである。このようなあり方は主体主義によっている。しかし、思想家のカール・マルクスはこのように言っているのも見のがせない。個人の意識は、その社会によって規定される。社会のあり方だったり、属している階級だったりに、個人の意識が大きく影響を受けるのである。

 現実を直接にとらえるのはできづらい。というのも、それをとらえるのには、言葉によるのがあるためである。言葉は物的な媒介である。それを媒介とすることで間接的になるわけだ。なので、そうした間接によるのがあるにも関わらず、あたかも直接によるのだとするのなら、そこには現実とのずれの隠ぺいがあるだろう。

 真理か虚偽かといった一かゼロによる見かたではなく、もうちょっとファジーに見てもよいのではないか。ファジーに見たら、憲法九条や日本型リベラルも、それなりに正しいところがある。それなりに間違っているところもあるだろうけど。そこについては、反証可能性みたいなのがあるのを認められればさいわいだ。

 憲法九条や日本型リベラルに反証可能性があるのだとして、それだからといって頭から全否定されるものではないだろう。哲学者のカール・ポパーは、科学的である条件は反証可能性をもつことによる、としたそうだ。これについてはまったくもって正しいとは言えないのもあるそうなんだけど、それはそれとして、間違いが含むのを許すようなファジーな合理性があってもよい。

 現実を見るのについて、反証をこばんで確証バイアスによってしまうのであれば、認知の歪みとなってしまう。これは反証をとらないことによる合理性だ。こうした合理性ははたしてほんとうに合理的なのかと疑える。人間には合理性の限界(限定された合理性)しかないのをふまえると、何の間違いや非もまったく含まないとはなりづらい。もし何の間違いや非もないとするのなら、それは無謬性をかたっていることになる。

 憲法九条をよしとしているだけでは、戦後の平和は築かれなかったかもしれない。しかしこれをあらためて見れば、憲法九条と戦後の平和との相関をまったく否定することもできそうにないのがある。もしかしたら、戦後の平和にとって、憲法九条のもっている力はすごく大きいのかもしれない。そこははっきりとは言えないところだろう。いっけん頼りなくて目だちづらいけど力がある、といった可能性がある。

 国の防衛において、一国で自衛する力をもったり、集団で自衛するようにしたりする。そうしたのは否定されるものではないかもしれないが、軍事力や軍事条約(同盟)によっているのはたしかである。一見するとそれらは頼りになりそうなものだけど、そうしたのがあったのにもかかわらず、第一次世界大戦第二次世界大戦がおきてしまったのは無視できそうにない。そうした大惨事をおこさないようにとのことで戦後の集団安全保障の体制がつくられたのではなかったか。そことのつながりとして、日本の憲法の九条があるとも見られそうだ。