建て前と本音があるとして、本音をぶちまけてしまうのはどうなのだろう(建て前とのかね合いがあるので)

 今回の選挙では投票をしない。そのようにして棄権することを呼びかける。この動きについて、一部からは批判する声があり、また他方では賛同する声も見うけられる。

 はたして、投票をしに行くのと棄権をするのとでは、どちらが楽なのか。それを比べると、棄権をするほうがどちらかといえば楽なのではないかという気がする。何人かの候補者や政党の中から、どこかを選ぶ。その選ぶのをやめてしまうのだから、そのほうが少し楽だとは言えるだろう。投票所に足を運ばなくてもすむ。

 六〇〇億円の費用がかかっているのがある。選挙に行ってくださいとの呼びかけもあり、期日前投票などのおぜん立てもされている。そうした労力や費用はなぜかけられているのだろう。それは一つには、よいことだからなのではないか。よいことではないのなら、労力や費用をかけないで放っておけばよい。周知しなくて、密かにやっていればよいわけだ。

 投票に行かないで棄権する自由があるのはうなずける。それに、ほかのところで色々な政治の活動にはげむこともできる。そうしたのはあるわけだけど、棄権する理由としてはそんなに強くはないのかなという気もする。そういう埋め合わせみたいなのはあるだろうけど、それとこれとはまたちょっとちがうのではないか。もっとも、まったく何の理由にもなっていないというわけではないし、個人の信条だからあまりとやかくいうべきではないのはあるかもしれない。

 共和主義においては、一人ひとりが労力や時間をかけて、公共の利益のためにとり組むのがよいとされる。どのようなものに労力や時間をかけるのかは、色々なのがあるだろう。そのうえで、あえて選挙で投票するのを避けることはない。そうした気がしてしまう。というのも、棄権してしまうのであれば、けっきょく労力や時間をかけないことになってしまいそうだからである。ほんの少しではあっても、差があると言えそうだ(ほんのちょっとだけかもしれないけど)。

 内容からいって、今回の選挙にはきちんとしたおぜん立てが整っているとはいえないのがある。そうしたのがあるとしても、なんとか自分で動機づけをすることはできなくはないのではないか。まったく少しも動機づけをはたらかせることができないとはいえそうにない。たとえば選択肢が一つしかないとか(同じようなのが)二つしかないとか、そういう極端なことであればやっかいだ。しかしそうではなく、いちおうは右から左まであるのだとすれば、そこで折り合いをつけるよりない(何とか折り合いをつけられれば)。棄権のほうへ動機づけがはたらいてしまうのを防げればさいわいだ。といっても、かりにそうなったとしても、個人の選択として自由ではあるわけだけど。