国難と受難(パトス)

 お前が国難、と記された用紙をかかげる。自由民主党安倍晋三首相は、選挙の演説に行く先々で、国民の一部からの反対の声にさらされている。ツイッターハッシュタグをつけて、#お前が国難、との文句が安倍首相につきつけられている。

 はたして、選挙の演説では、候補者の演説と有権者(の一部)からの声と、どちらが優先されるのがよいのだろう。候補者が演説しているのに、それを邪魔するのはけしからん。大人しく聞いている人も多々いるではないか、ともいえる。しかし、憲法では国民主権がうたわれているのもたしかだ。政治家(候補者)主権になってしまうとしたらどうなのだろう。代表制の矛盾のあらわれだ。

 行く先々のすべてで反対の声が投げかけられるわけではないのかもしれないが、行く先に反対者が待ちかまえている確率は低くない。陣営は、事前に行く先を告知しないようにしているらしいのだが、それでもまったく知られないでやることはできないから、賛同者ばかりを聴衆として集めるわけにはゆかないのだろう。演説をする身としてはやりづらそうだ。

 安倍首相の演説にかけつけて、反対の声を投げかける人たちは、動員されているおそれもいなめない。そのように動員されているかどうかは、客観の証拠がないかぎりは断定することができないものである。ほんとうの国民(の一部)からの生の声であるとすればそれはできるだけ尊重されることがいる。

 お前が国難、との文句は、議会の外にいる野党からの声といえるだろう。議会の内にいる野党からの声は避けられても、その外からの声は避けられなかった。そういうことが言えるのではないか。なにも、与党のやることに賛同してついてきてくれるばかりが野党ではない。それはたんなる補完勢力にすぎないのがある。

 お前が国難との文句を投げかけることで、問題を突きつけていることになる。問題というのは外から突きつけられるものであり、内からはなかなか突きつけるのができづらい。自分にはどうしても甘くなってしまうものだからである。自分で自分になんら問題がないと言っても、それは自己言及になってしまう。

 すべての批判の声にいちいちとり合わなくてもよいかもしれないが、それとは別に説明責任を果たすことは大切だ。不信をもっている人たちがいるのなら、その人たちを切り捨ててしまうのではなく、なるべくすり合わせるようにできればよい。そうでないと分断したままになる。

 問題があるのなら、それを認めて、再発の防止の策を示す。もしくは自分がいったん地位を引き下がる。そうした手だてがとられるのがいる。もし問題がないとするのであれば、たんなる問題の隠し立てではないことをきちんと納得させられるように説明をする。おもて立ってそれができるはずである。

 お前が国難、と言っているのは、けっして何の理由もなくそうした声を投げかけているわけではないだろう。何らかの理由にもとづいて声を投げかけている。これは、お前が国難であることの理由である。いっぽう、自分が国難ではないことを証明するのはむずかしいかもしれない。国をつかさどってきた長として、これまでに非がまったくないとは見なしづらい。

 いったい誰が(何が)国難なのかについては、意見が分かれるのはある。そのうえで、国難を持ち出したきっかけは安倍首相なのがあるから、まさかそのほこ先が自分に向けられるとはあまり想定してはいなかったのかもしれない。少なくとも、かりに国難があるのだとすれば、そうやすやすとは解決や突破ができそうにない。そもそも、国難と突破はたやすくは結びつかない。なにを根拠にして、国難と突破を結びつけているのだろう。

 分断をきたしている場合ではなく、みんなでそれぞれの知恵を出し合い、それを尊重し合うのがあったらよさそうだ。そのためには、無知による切り口もありだろう。自分が知っていることがすべてではないのがあるから、自分と近しいものだけでは不完全さをまぬがれそうにない。近しいものだけで固まるのなら側近政治をぬけ出すことは困難だ。