ゼロという誇張(誇張ゼロができればよいのかも)

 十二のゼロを目ざす。希望の党は、それをかかげている。希望の道しるべであるという。政治における隠ぺいゼロや、企業献金をゼロにするのなどを目ざすそうだ。このなかで、花粉症をゼロにするのも入っていて、一部から波紋を呼んでいる。

 花粉症に苦しんでいる人は少なくないから、それへの対策が打たれるのはよいことだろう。ただ、ゼロにするということになると、いったいどうやってそれを達成するのかとの疑問がわく。厳密に言えば、一人でも残っていたら失敗だ。

 なんで十二のゼロに限られるのだろう、というふうにふと感じた。ゼロを目ざすのがいるものは色々あるから、その中でなぜ十二のものが選ばれたのだろう。

 全部を含めてしまうやり方もある。われわれは、社会のなかでゼロにするのがのぞましいことを、ゼロにするのを目ざす。こうすれば、もれがなくなるわけだけど、その代わり具体性がまるでない。もともと、なぜゼロの語を使うのかといえば、それは雰囲気だけでも具体性をもたせたいからだろうから、かえって逆効果となってしまう。

 ちょっと身内に甘いかなという気もする。政治での隠ぺいゼロや、企業献金ゼロを目ざすのはよい。しかしそれだけではちょっともの足りない。政治家の嘘をゼロにしたらどうか。ごまかしや言い逃れや忖度もゼロにするのを目ざすのである。お金の無駄づかいもゼロを目ざすのもよさそうだ。国の借金もなるべくゼロにするのがいる。そして、憲法違反もゼロになるのを目ざせればよい。護憲を絶対化するわけではないが、いちおう法治国家なので。解釈の幅が難しいかもしれないけど。