気がむしゃくしゃしていたとしても、人や物に八つ当たりしないようであればのぞましい

 生徒が教師をなぐる。そのような事件がおきた。中学校でのことのようだけど、同じ地域で、高校でも生徒が教師を蹴る事件がおきていたという。教師をなぐったり蹴ったりした生徒は、ともに警察に逮捕されたようだ。

 くわしい背景はよくわからないから、何か事情があったおそれがないではない。そうではあるけど、とりあえず一般論で見ることができるかもしれない。

 生徒が教師をなぐったり蹴ったりすることは許されない。あたり前のことではあるけど、これは守ることがいる決まりといえる。この決まりを破ってしまったから、警察に逮捕されることになった。

 教師をなぐったり蹴ったりした生徒が、警察に逮捕されるのは妥当である。なぜかというと、法を破ったからである。すごく守るのがむずかしいような、高いところにある決まりではなく、これだけは最低でも守ることがいるという決まりを破ってしまう。それであるのであれば弁解はできづらい。

 他の人をなぐったり蹴ったりするのは、よいか悪いかであまり迷うことがいらないものである。これはよいことだろうか、それとも悪いことだろうか、とはなりづらい。正当防衛などの例を除けば、端的に悪いと見なせる。たとえば、人に多少の迷惑をかけてしまうようなことなら、よいのか悪いのかの判断に迷うことがある。しかし、他の人をなぐったり蹴ったりするのは、迷惑の次元を超えている。違法となる。

 生徒が教師をなぐったり蹴ったりするのは、一つの罪であるといえる。その罪があるとして、そのままでおくわけにはゆかない。まったく外に発覚しなければそのままになってしまうこともありえるだろうけど。なされた罪にたいして、それにふさわしい罰を受けることになる。矯正的正義である。

 教師が生徒からなぐられたり蹴ったりされたとして、それがそのままでおかれたら、やられっぱなしとなる。そうしてやられっぱなしのままになるのは正当とはいえそうにない。あるべきではないことである。なので、そこに応報律がはたらく。暴行を受けたのだから、その被害を多少なりとも回復しないとならない。そのようなことで、処罰が下されることになる。

 処罰が下されることになるといったって、現実にはそうならないことも少なくはない。残念ながらそういうことが言える。被害を受けても泣き寝入りさせられることもある。こうした現実があるとして、それは正しいあり方とは言えそうにはない。今すぐにそれを正すのは難しいかもしれないが。法の網の目に、小さな者は引っかかるが、大きな者はそれを突き破って飛んでゆく。そうしたおかしさもある。

 力に頼らないようにして、非暴力によるようであればのぞましい。だれしもが、力による暴行などを他から受けることがなければさいわいだ。そうしたことを受けるのをのぞむ人はいないだろう。力を他から振るわれないのぞみは権利として最大限に尊重される。力を他に不当にふるってしまわないように、事理弁識能力と、行動制御能力をできるだけきちんともっていたいものである。

 感情(システム 1)と理性(システム 2)があるとして、理性によって感情を抑えるのができづらいことも少なくない。なるべく抑えられたほうがよいわけだけど、感情であるシステム 1のほうが前に出すぎるとやっかいだ。それで直情径行になってしまう。そうしたことにならなければよい。なるべく感情であるシステム 1を相対化できればよいだろう。早まらず、遅らせるわけである。心理学者のダニエル・カーネマンは、システム 1は処理が速く、システム 2は遅いことを指摘している。ともに不完全であるため、まちがいをまぬがれるものではない。