同一化圧力(ピア・プレッシャー)をかけすぎるのだと息ぐるしくなってしまいかねない

 安全保障関連法案に、肯定する。そうした議員は、希望の党に入れる資格をもつ。しかし、もし安保法を否定するのなら、希望の党に入るのはむずかしい。その理由として、安保法の必要さは、日本をとりまく情勢を見わたしてみると、あるとするのが理にかなっているからである。

 小池百合子都知事は、希望の党の代表として、おおむねこのようなあり方を示している。最近はそんなに言ってはいないのかもしれないが、小池都知事はしばしばダイバーシティ(多様性)が大切だと言っていたのがあり、それからすると、もうちょっと多様性があってもよいのではないかという気がする。

 合憲か違憲かは意見が分かれてしまうのがあるけど、個別的自衛権についていえば、国の防衛としての一線を越えたものとはいえそうにない。専守防衛の一線である。しかし、集団的自衛権を一部認める安保法については、違憲のおそれが高いし、一線を越えたものと見なせるのがある。少なくとも日本の憲法からすればそれが言えるだろう。一線の引き方が恣意であるのをまぬがれないかもしれないが、いちおう武力行使の歯止めとしてのものである(自衛権武力行使につながるので)。

 憲法の改正と安保法の肯定を、希望の党への入党の条件として一組みとしている。これは改めて見れば、安保法は法律であり、その上位に憲法があるので、実質として憲法改正の一つに限ることもできそうだ。したがって、憲法改正に的をしぼることができる。

 憲法についていえば、それを改正するのは権利としてはあるだろうが、義務とはいえそうにない。むしろ遵守する義務が政治家の人たちにはある。ゆえに、まずは憲法を遵守することを先行させないとおかしな話のような気がする。権利は、してもよいし、しなくてもよいものである。

 憲法の改正は、どちらかといえば内容についての話である。しかし、憲法の遵守は形式の話だといえる。まずは形式から行くのでないと、内容から入ってしまうのはちょっとおかしい。というのも、形式からではなく内容から入るのであれば、それはあくまでもそれぞれの価値観の問題になってしまうからである。実質に入るまえに、それぞれの価値観を(許される範囲内で)できるだけ尊重しようという中立の形式をまずふまえるのが筋だろう。

 かりに、憲法改正の正義と、憲法を守る(変えない)正義があるとする。少なくともその二つの正義があるとできそうだ。そうであるのなら、どちらか一つの正義だけをよしとして、残りのものを頭ごなしに切り捨ててしまうのはどうなのだろう。せめて議論の余地くらいはあってもよさそうだ。党の基本となる色合いはあってもよいだろうけど、あまりかたくなに単一の価値観によるようだと、社会のありようを反映したものではなくなってしまう。社会には矛盾はつきものなのがあるので、単一の価値観をおし進めると失敗をもたらす(たとえば国家社会主義など)。そうした危なさがありそうだ。