日本をリセットする必要があるのかは若干の疑問である

 日本をリセットする。小池百合子都知事は、希望の党の立ち上げにさいしてこのように述べていた。ここで言うリセットとはいったい何を指しているのだろうか。そこがちょっと引っかかる点である。

 かりに日本をリセットするのだとしても、そのあとに何をセットしようとしているのかが気になるところだ。あとに何もセットしようとはしていないにもかかわらず、リセットしようとしているのだとは見なしづらい。あとに来るであろうセットとしては、復古的なものがあげられる。反動的な動きになるのであれば心配だ。

 リセットするよりかは、アウフヘーベン(止揚)すればよいのではないか。そろばんでいうと、リセットとはご破算みたいなものだろう。しかしそうではなく、アウフヘーベンであれば、ご破算までは行きそうにない。アウフヘーベンの語には、捨てるの意味と、拾うの意味の両方があるという。何を捨てて何を拾うかをあらためて見ることができる。いっしょくたに何もかもリセットしてしまうよりかは少しだけましだろう。

 リファイン(洗練)なんかもよいかもしれない。戦後に築かれてきたよいところがあるのだとすれば、それをさらによくして行くために洗練させるのである。色々な見かたができるのだろうけど、日本はいちおう洗練された社会だと見なすこともできる。そのよいところを全部リセットしてしまうのはもったいない。

 リスタートするのはどうだろうか。あらためて原点に立ち返るといったようにする。戦後をかりに出発点であるとすると、そこで生み出された理念をあらためて見直してみる。理念を絶対視してしまってはよくないかもしれない。そのうえで、立憲主義的民主主義や自由主義ののぞましいあり方をふまえてみる。

 国家は世界の一部分にすぎないので、それが暴走するのに歯止めをかける。その歯止めがこれまで以上にあったほうがよくなってきているのもありそうだ。いや、そうではなくて、むしろ歯止めをゆるめたほうがよいのだ、とする意見もあるかもしれない。そうなると、国家が軍事などでできることが大きくなるわけだが、それよりも歯止めによる制約をうまく生かす手もありだ。

 歯止めや制約がゆるいと、軍事による防衛にお金と力を注げるのはあるだろうが、それは安全をかならずしも保証はしそうにない。反比例して逆説がはたらくことも考慮に入れるべきだ。富国強兵による軍事の強化と膨張によって、日本はかつて戦争につき進んでしまったのがある。