国家への忠誠を押しつけてしまうと、形式によることになり、内容が軽んじられる(共同幻想と自己幻想のずれがおきる)

 試合のまえに、起立して、国歌を斉唱する。アメリカのプロフットボールの競技では、そのようなことが毎回行なわれているという。それで、一部の選手が起立せずに、片膝を立ててそれにのぞむ。たがいに腕を組み合い、団結する意思を示す。

 なぜ一部の選手が、試合のまえに起立せずに国歌の斉唱にのぞんだのか。それは、社会における(少数者への)差別や不平等にたいする抗議の気持ちをあらわすためであるという。こうした選手に向かって、ドナルド・トランプ大統領は、ツイッターのツイートで批判をしている。サノバビッチ(ろくでなし)は解雇せよ、とのツイートをしたようだ。あらためて見れば、サノバビッチでもないだろうし、解雇されるのも不当だろう。

 プロフットボールの選手は、フットボールの試合をするのが仕事である。試合のまえに起立して国歌斉唱をするのが仕事なわけではないだろう。きちんとフットボールの試合に力を注げば、それでフットボール選手としての必要条件は満たしている。

 トランプ大統領の心情としては、試合のまえに起立して国歌斉唱をするのは当然のことで、それをしないのは断じてけしからんことなのかもしれない。それをかりに格律(マキシム)であるとすると、これを一般化するのはふさわしいことなのだろうか。

 一般化するのであれば、誰もが逆らうことなくやらなければいけないことになる。そうして一般化するのだと、無条件になってしまう。そうではなく、条件つきであったほうが、ある点では理にかなっている。市民的不服従みたいなことで、たとえば、国がまちがったほうへ進もうとしているときに、それに逆らうのが許されてもよい。こうしたふうであれば、判断をきかせられる。

 試合のまえに起立して国歌斉唱をするのは、ごく自然なことである。かりにそう言えるのだとしても、それとは別に、功利主義の点から見ることもできそうだ。起立して国歌斉唱をすることで、はなはだしく効用が損なわれることが人によってはある。それを強いてむりやりに押しつけてしまえば、苦を与えることになる。全体の効用が損なわれることになり、のぞましい帰結が導かれるとは言いがたい。

 一つ言えそうなのは、選手のふるまいのよし悪しに要点があるのではないのがあげられる。試合のまえに、起立せずに片膝立ちで国歌斉唱にのぞんだ選手は、ふるまいはたしかによくはないだろう。しかし、そこに要点があるのではなく、なぜそうしたふるまいをしたのかの理由を見てゆければよさそうだ。その理由が聞き入れられてもよいはずである。もし聞き入れないで一方的に切り捨ててしまうのであれば、全体化につき進むおそれを避けられそうにない。

 国が介在するものではなくて、たとえば平和の歌とか、民主主義の歌とか、人権の歌なんかを歌うのはどうだろうか。または、平和の旗や民主主義の旗や人権の旗にする。こうしたものにすることで、国家への忠誠を誓わないですむ。グローバル化が進んだいまの時代に、一つの国が単独で持つ意味あいはそれほど大きいとはいえそうにない。それを大きいものだとしてしまうと、部分最適にはなるかもしれないが、全体最適にはならなくなってしまいそうだ。