Twitter というサービスをつくり、利用者にツイートをさせているとすれば、製造物(者)責任が社にありそうだ

 利用していたアカウントが、いきなり凍結される。こうなってしまうと、(よっぽど悪いことをしていたのではないかぎり)その利用者が気の毒だ。ほかの利用者を威圧することにもなりかねない。自分もまたいきなり凍結されてしまうのではないか、と危ぶむことになるからである。

 利用しているアカウントをいっさい使えなくさせてしまうのが凍結である。それで、利用者にそうした処置がとられたことから、ソーシャル・ネットワーキング・サイトの Twitter 社には一部から抗議の声がよせられている。

 評論家の江川紹子氏は、言論プラットフォームとしてのあるべきあり方をツイートで Twitter 社に問いただしている。はたして Twitter が言論プラットフォームであるかどうかはともかく、少なくとも言論プラットフォームとしても使えることはたしかだろう。とすると、できるだけ開かれたありようがとられているのがのぞましい。

 アカウントを凍結するのであれば、Twitter 社はなぜそうした処置をとったのかの理由を説明しないとならない。理由ぬきで問答無用でやるようではおかしいのがある。この点については、どうも Twitter 社としては、具体的な基準を明らかにはしたくないようなのである。明らかにしてしまうと、基準をすり抜けられてしまうからだという。

 国でいえば、Twitter 社のあり方は、法治ではなく人治のようなものだろう。法治であれば、罪刑法定主義といわれるようなことで、どんなことをしたらどんな処罰がある、とあらかじめみなに示されている。そうして示されているからこそ、不当な処罰を受けないでいられるし、安心して暮らせるわけである。これが人治であればそうした利点がのぞめない。

 統治のあり方として、Twitter 社は自分たちのよしとすることだけではなく、利用者からのさまざまな立場の意見をできるだけ聞き入れるのがのぞましそうだ。有名人も利用者としてとり入れて、門戸を広く開放しているのであれば、気に入らない人は使わなければよい、との言い分はちょっと通りそうにはない。

 Twitter 社が利用者のアカウントを凍結するのはよいとしても、なぜそうした処置をしたのかが説明されないと、いろいろな憶測を呼んでしまう。いくつかの解釈がなりたつ。かならずしもふさわしくない発言をしていたから凍結されたのだとは言い切れない。たとえば、真理みたいなのを言っていて、それが他の人の目に触れると都合が悪いと見なされたために凍結された、なんてこともありえる。

 どういった判断で Twitter 社が利用者のアカウントを凍結したとしても、それは Twitter 社の自由なのだからそれでよいではないか。そうした見かたもできるかもしれない。くわえて、凍結されたとすれば、それによって省みることができるきっかけともなるかもしれない。そうしたのもありそうだけど、利用者のアカウントを凍結するのは、Twitter 社がくだす罰であるといえ、その罰が犯した罪ときちんとつり合っているのか、などの検証も欠かせないのがありそうだ。

 凍結されてしまうのをかりに地獄だとすると、いきなり地獄に落とされてしまうのはきつい。車の運転でいうと、青信号と赤信号しかないみたいである。その中間の黄信号みたいなのもあってもよさそうだ。キリスト教では、地獄と天国のあいだに煉獄(れんごく)があるといわれている。煉獄にいればうまくすれば天国に行ける。そういったのがあれば、救済の余地があることになるから、そうしたのを残しておいてくれたほうが人間的だ。