かかえている条件がそれぞれでちがうから、あり方を押しつけてしまうと公平にはなりそうにない

 偏見をなくしたい。そうであるのなら、生まれ持った名前によって活動するのがふさわしい。そうでないと、自分が偏見を持ってしまっていることになる。このようなツイートを見かけた。

 偏見をなくしたいというのは、価値についてを言っている。これは理想である。それとは別に、現実には偏見がある。そのように見ることができる。これをごちゃ混ぜにしてしまうと、価値と現実とが区別されなくなってしまう。なので、これを分けて見たほうがとらえやすくなる面がある。

 現実にある偏見は、なかなかそれを改めようと思っても、一人の力だけではいかんともしがたい。人々がもつ偏見は根づよいものがある。そうしたのがあるので、そこへ適合してゆくために、生まれ持ったのではない名前で活動することがあってもよさそうだ。苦肉の策でありえる。これは、そうした適合の仕方が悪いのではなく、偏見をしてしまう社会や環境のほうがどちらかといえば悪い。

 生まれ持った名前によって活動していれば、その人のよさを示すことになるのだろうか。また、生まれ持ったのではない名前で活動していれば、その人の悪さを示すことになるのだろうか。必ずしもそのように言うことはできそうにはない。いちがいに関連づけることはできないものだろう。これも偏見のうちの一つといえそうだ。

 何か後ろ暗いところがあるから、生まれ持ったのではない名前で活動するのにちがいない。このような見かたは確かとはいえないものである。個人の要因として見てしまっていることになる。そうではなくて、個人をとり巻く社会や環境のほうに大きな要因があると見たほうがどちらかといえば妥当である。まずは社会や環境にはびこっている偏見をとり除くのが急務であり先決だ。そのように言うことができるのではないかという気がする。