J アラートの警報に目的合理性があるのかが若干の疑問である(うがった見方をすれば、必要がねつ造されているおそれも完全にゼロとは言えそうにない)

 北朝鮮がミサイルを撃ってくる。それで、政府は警戒のために J アラートを鳴らして国民へ注意をうながしている。とはいえ、ミサイルは日本の上空を飛びこえてゆく。日本列島からけっこう離れた海上に落ちているようだ。

 ミサイルは、上空からやってくる鉄の塊なわけだけど、地上にもまた鉄の塊が行き交っている。それにひかれることの現実味や怖さを無視できそうにない。モータリゼーションの社会であるから、車はいたるところを走っている。

 はたして、ミサイルが飛んでこなければそれで安心なのかといえば、そうとは言えそうにない。ほかにも危険なものは少なからずある。けれどもそうしたものにはとくに J アラートが鳴って危険が率先して喚起されるわけではない。

 人々をとり巻いているのが、危険社会となっているのがある。人々は色々な危険さにとり巻かれている。そのような指摘があるのを無視することができそうにない。直接のものではなくても、間接的な暴力はまん延している。

 ミサイルの危険さのほかに、いくつかのものをあげられる。原子力(核)発電所の危険さがまずある。これは脱原発派の人たちが声を上げているものだ。ほかに、国家の財政の深刻な危機もある。もっともこの危機については、楽観論もあるにはある。このほかには、地震破局噴火などの自然災害もあるのでやっかいだ。テロなどの犯罪に見まわれることもある。

 危険社会において、色々な危険があり、それが人々をとり巻いている。その一つ一つの危険を認めてゆき、それぞれについて対応してゆく。そうしたことがあったらよさそうだ。色々あるなかで、どれがより身近であり、どれがそれほど身にさし迫ってはいないのかは、人それぞれとなる。そこを見てゆくことがいるのがあり、その見きわめをとり違えてしまうと見当はずれになりかねない。