同じ日本人といっても、しょせんは他人なわけだし、テレビのコマーシャルに出るための条件としてはそこまで重要とは思いづらい

 日本人を起用せよ。サントリーのテレビコマーシャルについて、このような抗議の声が寄せられているという。このコマーシャルでは、タレントの水原希子氏が出ているそうだが、水原氏がハーフであることから、一部から標的にされてしまっているようだ。

 サントリーとしては、こうした事態のなかで、自分たちの会社の思想や哲学を示すかっこうの機会であるとの見かたもとられている。ここで、差別は許されないことであり、そうした行ないには断固反対するとの姿勢を示せば、サントリーの会社としての株があがることが見こめる。

 そうした姿勢をサントリーが示したとして、それで相手が黙って引き下がるとは見なしづらい。今度はさらに抗議の声が高まってしまったり、サントリーの商品を買わないようにするといった不買運動がおきかねない。そうしたおそれがあるため、なにか具体的な行動がとれずにおよび腰になるのもある。

 出自がどうかによって人を否定してしまうと、排外主義になる。どういった出自をもっているのかは、本人が自分で選んだものとは言いがたい。たまたまどこかで生まれて育ったにすぎないわけだから、本人に非があるわけではない。

 日本とはちがったところの出自をもっている人であるとしても、それだからといって負の属性をもつわけではないだろう。そこについては、過度の一般化や過度の単純化をしてしまうのに気をつけられればさいわいだ。なるべく単純化しないで、属性によってだけで見ないようにできればのぞましい。

 いくつかの出自や属性をもっているのであれば、日本にたいして多少の距離感が出ても当然だ。距離感があることは悪いことではない。むしろよいことである。そのようにして対象化ができずに、日本の国とぴったりと一体化してしまうほうがややまずい。国とは実体ではなく、超自我が投射される虚焦点にすぎないとフロイト精神分析学では言われているという。法を擬人化したのが国家となる。不安をしずめるための権威となる。

 帰属による同一さとはちがうものがあるからこそその人の個性になる。個性なき帰属には、平準化された画一さしかのぞめそうにない。そのような同一化への圧力はなるべく少ないほうがよさそうだ。同化による画一化された同質さは、平等であるのではない。

 もし日本のことを心の底から嫌っているのであれば、日本の企業のテレビコマーシャルに出るとは考えづらいし、出るのを断るものではないか。ものすごく日本のことを嫌っているにもかかわらず日本の企業のテレビコマーシャルに出るとは考えづらい。そこは個人の内面の動機をうかがうことになるが、そんなことを外から忖度しても本当に当たっているのかは確かめようがない。

 同じ日本人であるといっても、誰かがテレビのコマーシャルに出ていたところで、その人が出演料をもらうにすぎず、自分にとくに益になるわけではない。他人ごとである。そうしたのもあるし、テレビのコマーシャルには日本人が出るべきだというのであれば、恣意的に非難するのはちょっとおかしい。出自や属性は問わずに、適した人が出ればよいのではないか。

 二〇二〇年に東京五輪を予定していて、そこではおもてなしが言われている。そのおもてなしとは逆行するような風潮もおきていないでもない。せっかくの機会だから、同胞であるわれわれではなく、異邦の人をおもてなしして歓待するようにできればさいわいだ。そうしておもてなしすることで、贈与することになる。このような贈与が異邦の人へだけでなく同胞の中でも盛んになされればよさそうだ。贈与は消尽による消費であり、それは(けちけちしていないような)豊かさであるだろう。格差による分断(ディバイド)をのりこえるための多少の手だてになるかもしれない。