やる気はないけど言っているだけにすぎないのであれば、それをなるべく見きわめることがいりそうだ(国の関係において)

 挑発されたのに対して、それにのってしまう。そうなってしまうと危なそうだ。あくまでも言っていることにうかつにのらないようにして、慎重になったほうがのぞましい。

 北朝鮮は、日本にたいして煽動するような声明を出している。それを真に受けてしまうのではなく、一歩引くようなふうにして受けとめるのがよい。あまり真に受けている人は多くはないだろうけど、扇動にのってしまうようであれば心配だ。

 相手が言ってきていることと、じっさいにやることとを分けて見る。そうすることによって、二分割してとらえることができそうだ。言っていることをじっさいにやることがありえて、一方でやらないことがありえる。

 過激なことを相手が言っているのだとしても、それをじっさいにやらないのであれば、実害はほとんどないに等しい。気分は害するわけだけど。そこを見きわめられればよさそうだ。

 相手の言うこととやることを分けてみるのは、言と行を差異によって見ることだと言えそうである。これを必ずしも一致させないのである。ふつうであればそれができるだけ一致したほうがよいわけだけど、そうでないほうがさいわいとなることもありえる。

 一致しないほうがよいのは、遂行(パフォーマティブ)の度合いが大きいときだといえる。あることを相手が言っているとして、それがたんに遂行として言われているのなら、事実(コンスタティブ)とはまたちがう。たとえば、殺すぞ、と言ったとしても、じっさいに殺すわけではないのがある。ちょっとぶっそうな例ではあるけど、文字どおりではない受けとり方が可能だ。

 そうしたことについては解釈がからむ。ある一つの解釈だけが正しいとは言い切れないのがあり、さまざまな受けとり方ができるとすれば、それらをふまえてみるのがよい。でないと速断してしまうことになりかねない。

 言っていることを必ずしもやるとはかぎらない、とすれば、疑うことができる。言っているのが、たんにそうした願望(wish)を口にしているだけにすぎないとすれば、そこでとどまることも少なくない。そうした願望なのではなくて意思(will)を言っているのだとしても、それが見せかけであるのだとすれば、じっさいにやるわけではないことになる。意思とはいっても行動に結びつかないものもある。その点は、現実世界と可能世界みたいなちがいがあるかもしれない。

 言葉と心を分けて見るのもできる。哲学者のカール・ポパーは、世界三の理論を説いたという。この理論では、世界一が物質で、世界二が心で、世界三が言葉(観念)である。これをふまえると、言ったことは世界三であり、それとは別に心がある。この心は世界二であり、これをおしはかることができるのだ。そのさい、色々なおしはかり方ができるのであり、正解は言った本人にしかわからない(または神のみぞ知る)。

 ていねいな説明をしっかりとしてゆく、と言っているのだとしても、じっさいにそれをやるのではない。国内に目を転じてみると、そうしたこともある。これは、言っているだけでやろうとはしていないことをあらわす。やろうとはしていないなんていうふうに決めつけてしまってはまずいかもしれない。とはいえ、言っていることを必ずしもやりはしない、として疑うのがここでは有効にはたらく。それを他のところでもそれなりに生かせそうだ。

 憎悪表現(ヘイトスピーチ)であるのなら、それを言った時点で問題である。個人もしくは少数派が不当な悪口を言われっぱなしであるのなら、それはのぞましい社会のあり方であるとはいえそうにない。宗教で言われる黄金律を照らし合わせてみても、自分が言われたら嫌なことを他の人に向かって言うのは、できるだけ控えるのがふさわしいだろう。

 国との関わりにおいては、その国をとり巻いている状況に目を向けることもできる。もしまわりから追いつめられている状況があるのだとすれば、そうして追いつめられているために口にしてしまうような発言もあるだろう。そうであれば、状況が悪いと見なすこともできないではない。責任の帰属が、主体にあるのか状況にあるのかの見かたのちがいである。これを見まちがうと帰属エラーになる。

 終極目的(テロス)をどこに置くのか。日本が戦争に巻きこまれないですみ、国民が戦争に駆り出されずに安全でいられるのを目的とすることができる。そうであれば、その目的さえ果たせればよいのだから、この手段でなければならない、といったこだわりをもたずにすむ。これでなければならない、といった固定した方法論におちいらないでいられる。

 国はかくあるべし、といった観念を、できることならとっぱらう。そうした姿勢もありだろう。国家の道みたいなのをなるべくもち出さない。国家の道とは、たとえば国家たるもの軍隊を持っていないとならないだとか、交戦権がなければならない、といったものである。そうした道をもち出してしまうと、固定した方法論におちいる。極端な話でいえば、(軍隊や交戦権をそなえた)国家の道からはずれていても安全で平和であればそれでよいし、道にのっとっていても危険をまねくのなら失敗だ。いろいろな手段がありえるなかで、できるだけ平和的で、ぶつかり合うのを避けられるようなことが試みられればさいわいだ。