本当にわかっている人からすればとらえ方が大きく間違っているかもしれないが、悟りを無意味であるとしてみた

 悟りとは無意味のことである。もしそうであるとすると、悟りが悟りであるためには、意味をもってはならないことになる。しかしじっさいには、たとえほんのわずかであったとしても、意味をもってしまう。ほんのわずかであったとしても意味をもってしまうのであれば、悟りは意味をなさなくなる。

 テレビの画面を見ていると、そこに意味のある映像が映し出される。しかしこれをあらためて見ると、赤と青と緑の三色が組み合わさっているので成り立っている。この赤と青と緑の素材だけを見れば、そこにとくに意味はなさそうだ。しかし、一つの画面として見れば、そこに何らかの意味を見いだしてしまう。

 じっさいに悟っているわけではないから、かなり的はずれなことを言ってしまっているかもしれない。そのうえで、無意味かどうかに的を置けるとすると、悟りとは記号内容(シニフィエ)なき記号表現(シニフィアン)であることがありえる。そうはいっても、記号表現にたいして記号内容がくっついてきてしまうのは避けづらい。空であるのが、何らかのもので充填されてしまうようなあんばいだ。

 かりに悟りを相対化できるとすれば、悟りであるような、そういう見かたもとることができる、といった程度だと見なすことができそうだ。一つの見かたとしてあるわけであり、数ある見かたの中の一つみたいなふうである。色々なものごとが、まったく方向づけされていなくて、たんなる無意味な客体である、として見なせることがありえる。そうしたとらえ方ができそうである。

 悟りに意味があるのだとすれば、それはそれでよいだろうけど、意味の病いみたいなことになりかねない。意味としてそれが本質になり、絶対化されることがありえる。そうなってくるといささかやっかいだ。真偽がどうかといったのがとり沙汰されてくる。そうした真偽の点については、教条的になってしまうとややまずい。懐疑の視点をもつこともいるかもしれない。