当事者のあいだでことが丸く収まったからといって、それでよいとはできないかもしれない

 まちがったことをしてしまって、ビンタを受けた。それで、ビンタをされたことについて、非があったためにそうされたとして、(受けた側が)受け入れる気持ちを示している。また、じっさいに何かけがが生じたといったことがない。こうしたことなのであれば、結果論としてだけ見れば、当事者においてはことが丸く収まっているとすることができそうだ。ただそのさいの結果論は、当事者においてのものであり、それ以外の人をふくめた大きな結果論として見れば、波紋を呼んでしまったのがある。

 本来するべきであることではなく、するべきではなかったことが行なわれたのがあり、それにたいする応報のはたらきがありえる。この応報の是非がどうかといったことがふまえられそうだ。当事者においては、その是非について、非とするのなら不服をもったことになる。しかし是とするのであれば納得をしたことになる。不当か妥当かの受けとり方のちがいである。

 当事者においての、小さな結果論として見ると、外面的な結果にはさして大きな問題はおきていないようだ。このさい、ビンタを受けた側が、それを受けたことについて、それを受けるだけに値する非が自分にあったとして認めていて、なおかつ後々にまで残るような身体的ないし心的外傷がないとしての話である。そこまでが結果として含まれるだろう。

 ビンタをするほうの内面における動機を見てみると、まったくの純粋なものだったのかどうかはともかくとして、少なくとも非があるのをとがめるためにといった手だてであったことがうかがえる。何の非もなかったのにもかかわらず、たんに痛めつけようとしてやったのではないだろう。

 当事者のあいだでことが丸く収まったと見なせるのは、小さな結果論においての見なし方だといえる。それはそれでまったく無視してしまうのはできないのがあるが、それとは別に、世間で波紋を呼んでしまったわけであり、大きな結果論では問題をふくんでいる。また、ビンタのほかに何か事前の備えだったり、最中の手段だったりで、もっとほかのやり方がとれたとすることができる。これは帰結をふまえるさいに言えることだ。そうして省みるのがあってもよいのかもしれない。