ビンタの是非があるとして、ビンタを是とするのは一つの価値判断であり、それを確実に基礎づけはできなさそうだ

 演奏会において、演奏中の生徒に指導者がビンタをした。この指導者は外部からきている人で、ジャズ・トランペット奏者の日野皓正氏である。日野氏が髪をつかんでのビンタをしたのにはわけがあって、ほんとうは次の奏者に交代しなければならないのを、ずっと居すわってドラムを叩きつづけた生徒がいたからだという。

 この件について、お笑いコンビのダウンタウン松本人志氏は、日野氏がビンタをしたことについてやや肯定的な発言をしていた。かつては先生が生徒に、または親が子にビンタをすることがいくらでもあったのに、今はだめだとされていることに納得がいまいち行っていないようである。ビンタを受けて育ってきた自分たちの(松本氏の)世代が否定されてしまいかねないのに少し異議を唱えていた。

 一つの要点をあげられるとすれば、ビンタが教育における有効さをもつかどうかである。この有効さはかなり疑わしいものだといえる。ひと昔前はビンタが公然と認められていたわけだけど、そうして育てられることで飛び抜けてすぐれた人材が多く生み出されるとは必ずしも言いがたい。

 そうしてみると、ビンタをしたところで、とくに教育の有効さと相関しないということができそうである。きわ立った教育の有効さは見いだしづらそうだ。なぜそう言えるのかといえば、ビンタを受けたところで、それによってのちにまともな大人になる保証はとくにないのがある。(もって生まれた)人間の性情がビンタを受けたぐらいで大きく改まるとはちょっと信じがたい。ある角度から見れば、人間はみんなどこか変でおかしなところがあるものではないか。欠陥をもたない人間はいないだろう。

 ビンタをふくめた体罰を受けて育てられた人と、そうでない人とを比べることができるとしても、どちらが優れているのかは判別をつけづらそうである。判別をつけようとすることにそれほど意味があるとは思えない。世代論で見るとしても、優劣で差があるとはあまりいえず、総合するとそこまで各世代に大差はないのではないか。

 ビンタなどの体罰を受けてそれで改心することもあるだろうし、そうならないで心の傷や体の傷になることもありえる。生存者バイアスみたいなのも関わってきそうだ。ビンタなどの体罰を肯定してしまい、それを自然としてしまうようだと、一つの神話と化す。そうした神話がひと昔前までは公然とまかり通っていたのがありそうだ。今ではそれが崩れてきている。しかしまだ一部で残存しているのがあるかもしれない。

 一つの見かたとしては、教育の手段としてビンタなどの体罰をすること自体が、変でありおかしい風習だとすることもできる。ビンタなどの体罰の手立てにたよってしまうこと自体が、それをする側の忍耐力の欠如をあらわしているとも見ることができる。そうした忍耐力をもしもっているのだとすれば、ビンタなどの体罰を肯定せずに、否定することができることになる。

 日野氏がビンタを生徒に行なった件では、特殊な事情もありそうだから、そこはちょっとよくわからないのがある。ただ一般論としていえば、建て前ではビンタなどの体罰はだめなものとして見なされているのがあり、それが妥当であると言えそうだ。建て前だけではやって行けないことが現実にはありえるだろうけど、なるべくそれが守られるようであることがのぞましい。