ポーズとして緊張を高めているのならまだよいけど、ポーズがじっさいになってしまうのだと危なそうだ

 対話は解決策にはならない。北朝鮮にたいして、アメリカのドナルド・トランプ大統領はこのようなことを述べたツイートをしていたそうだ。25年間ものあいだ、アメリカは北朝鮮との交渉のなかで、お金をゆすられつづけてきたとしている。

 お金をゆすられつづけてしまったのであればそれは気の毒である。そのようにして失われてしまったお金は、経済学でいわれる埋没費用にあたる。なので、それにこだわりつづけてしまうと錯覚や呪縛におちいることになるので、あまり気にしないのも手だろう。

 トランプ大統領のとろうとしているあり方は、タカ派によるものだと言えそうである。日本の安倍晋三首相も、こうしたあり方に呼応するような発言を述べている。いまは対話をしてもなんら有効ではなく、圧力をかけるべきときだとしている。

 タカ派によるあり方がはたしてものごとを打開することにつながるのだろうか。そこがちょっと疑問である。圧力をかけるのも必ずしも悪くはないだろうけど、それだけでものごとがうまく進むとは見なしづらい。ハト派的なあり方もとってゆくことがいりそうである。

 ハト派によるあり方をとるのだとすれば、解決策としての対話を手ばなさないようにするのがよいだろう。じっさいには解決策としての対話はひどくたよりないのはあるわけだけど、それはそれとして、北朝鮮には北朝鮮なりの言い分があることがありえる。その言い分に耳を傾けることがあってもよいものだろう。常識と非常識は、(立ち場が変われば)180度入れ替え可能なのがある。

 こうして言い分に耳を傾けるようにすれば、相手の言い分を頭ごなしに切り捨ててしまわないようにすることができる。じっさいのところは、アメリカが完ぺきに正しいとする確証はもてず、北朝鮮が完ぺきにまちがっているとの確証ももちづらい。そうしたことが言えるのがありそうだ。アメリカによる遠近法だけがすべてではなく、それとは別のものがあってもおかしくはない。見なし方が一様で画一でなければならないといったことはない。

 自分の言い分があり、それとはまたちがった他人の言い分がある。そのさい、自分の言い分をよしとして、他人の言い分を頭ごなしに切り捨ててしまうようだと、自分の言い分だけをよしとすることになりかねない。そうしたあり方は、対話(ディアローグ)をとることがないような独話(モノローグ)である。ぶつぶつとひとり言をくり返しつぶやきつづけるようなあんばいだ。それはそれで健全なあり方とはちょっと言いづらいのがある。

 (自分とはちがった)他人の言い分に耳を傾けることで、他者からの触発を受けることになる。そうしたのが少しくらいはあったほうがのぞましい。他からの触発があることによって、自分の中の風通しも多少はよくなるだろうし、自と他が共に少しは変わることがのぞめる。自と他の固定されたあり方から脱するきっかけが見こめる。そういったのが少しもないようであれば、たんに自分が自分から触発を受けるだけになってしまいかねない(あたかも狂人のように)。

 生やさしいことを言ってしまうかもしれないが、まずは相手のことをよくよく知ったうえで、それから非難するのでも遅くはないのがある。ごく表面的に知っているだけだとあぶない。そこは、(A は A であるといったような)要素還元みたいなのにとらわれず、もっと深く掘り下げて知ってゆくのでもよさそうだ。一つの文脈だけではなく、異なった視点からも見ることができたほうがのぞましい。

 アメリカはイラクと一戦を交えたわけだけど、それから数年たったあと、アメリカの海兵隊の長は悔恨の弁を述べたという。あらかじめもっと相手の文化なり風習なりをよく知っておくべきだった、としている。あとでふり返ってみると、こういった反省ができるのがあるわけだから、それをこれからのことに生かすのがあってもよい。でないと、けっきょくイラクにおいては情勢が安定せずに統治がうまくゆかないのがあるのと同じようにして、(経験から教訓を得ることなく)失敗をくり返すことになってしまうのがありえる。