政治家になるのに動機が問われないのだと、大衆迎合をまねいてしまうようになりかねないのがある

 政治家になるのには、動機のいかんは問われない。結果が大事である。何百万人もの人を殺害してしまったヒトラーは、いくら動機が正しくても、だめである。自由民主党麻生太郎副総理は、講演をした中でこのような発言をしたと報じられている。これについて、そもそもヒトラーは動機もまちがっていて、なおかつ結果もまちがっていた、との一部からの批判が投げかけられている。動機が正しかったとするのはまちがっているわけだ。

 かりに麻生氏に忖度することができるとすると、このように言いたかったおそれもありそうである。麻生氏が発言のなかでヒトラーを持ち出したのは、仮定の話として、ヒトラーの動機がもし正しいものだったのだとしても、結果として何百万人もの人を殺害してしまった、として受けとることもできなくはない。現実にはヒトラーの動機はまちがったものであったわけだけど、それがもし正しかったとしても、結果がまちがっているから、だめなのだと言いたかった。

 誤解を招きたくなかったのであれば、言葉をもうちょっと足すことがあるのがのぞましかったといえる。それとは別に、そもそもヒトラーについての認識の仕方がはじめからまちがっているおそれも捨てきれないものではある。もしかりに認識の仕方はまちがっていないのだとしても、ヒトラーを例に持ち出すのがそもそも危険であるから、適切とは言いがたいのもありそうだ。

 もうひとつ気になったのが、政治家になるのについて、動機が問われないとしている点である。これはちょっとおかしいような気がしてならない。政治家になるのについて、動機が問われないのだとおかしなことになってしまいそうだ。やはりそこは、常識の点からいっても、それなりのしかるべきまっとうな動機をもっていることがあったほうがのぞましいのがありえる。選挙で当選さえできればよいとはいいがたい。