一と口に昔といっても、多かれ少なかれさかのぼることになるから、(量のちがいはあるとしても)そういう点では共通している

 数十年または数百年も前のことを、いまさらむし返してどうなるのか。いまさらむし返したとして、それがいったい何のためになるというのか、との意見がある。たしかに、ずっと昔のことなのであれば、それをいまの時点であらためてとり上げるのが、はたして何のためになるのかとして見ることができる。

 時間の量をふまえてみると、昔とはいったい何をさすことになるのかをふまえられる。量のちがいはあるのだとしても、たとえば 0.5秒前も昔であり、1秒前も昔といえる。こうしてとらえるのは、いささか詐術のようなところもないではないかもしれないが、広くいえばほんの少し前であっても昔といえるだろう。

 犯罪の行為があるとして、その行為は、昔の時点において引きおこされるものだ。なので、昔をふり返ることに意味がないのであれば、色んな罪を問うこともできなくなってしまう。いや、そうではなくて、昔をふり返ることに意味があるのとないのとで、線引きができるともいえる。しかしこのさい、どこで線引きをするのがふさわしいのだろうか。線引きをするとして、それをふさわしいとするのは誰が決めるのかは、定かとはいえそうにない。

 地球の時間の感覚を持ち出すことができるとすれば、人間の一生が長くて 100年だとしても、それはほんのまばたき一回分くらいの長さにしかならない。人間の尺度を超えてしまってはいるが、地球の時間の感覚からすれば、それくらい短い時間でしかないのである。その時間の感覚をふまえると、たとえば 100年前のことであったとしても、それはごく最近のできごとだと見なすこともできないではない。

 直近の昔か、それともそこそこの昔か、もしくはずいぶん昔か、またはひどく昔か、といったちがいは、程度の問題にすぎないものではある。ただ、程度の問題だけにすぎないとして片づけてしまうと、それはそれでちょっと問題はあるかもしれない。そのうえで、昔とか過去とか言うさいに、それは量によるのか、それとも質によるのかが、定かとは言いづらいのがありそうだ。いずれにせよ、不可逆なものであるのはたしかである。

 直近におきたことであれば、まだ新しいので、さかのぼることがしやすい。そういった部分はあるけど、あったことをそのままにとらえるのは難しいものである。それはなぜかといえば、記憶が関わってきてしまうせいもありそうだ。記憶とはひどくあやふやな面をもつ。不完全である。認知のゆがみがはたらくのも避けづらい。それにくわえて、当事者においては、能動的に記憶をぼやけさせてしまうことで、自分たちの利とするようなこともおきてくる。これは合理化や正当化する動きだ。そうしたのがあるから、たとえ直近のできごとであったとしても、とりあつかいがしやすいとは限らないのがありえる。