後づけで合理化してしまっているのだとすれば、それをしないほうがより現実に近くなることになる

 こちらではなくて、相手が先におそいかかってきた。それに対抗するために、こちらが相手に反撃したまでである。そうした意見を見かけた。これは、関東大震災において、朝鮮人の人たちが虐殺されたとされる、そのあらましの話である。

 通説では、いわれなき朝鮮人についてのデマを真に受けてしまったことで、当時の日本人の一部は集団で朝鮮人におそいかかった。そうしたようなことであるとされる。しかし、こうした通説とはまたちがったことも言われている。

 デマを真に受けたのではなくて、それは実話なのだという。大震災の混乱に乗じて、朝鮮人の人たちは日本人に物理的な攻撃をしかけてきた。その被害を受けた日本人は、やられたのだからということでやり返したわけである。理由があって、日本人は動いたことになる。

 もしもデマではなくて実話なのだとしたら、やられたのをやり返したわけなので、そんなにおかしな話とはいえない。筋が通っているといえるだろう。こうした見かたを確かだとするためには、それを確証するための裏づけとなる根拠または証拠となるようなものがないとちょっと苦しい。というのも、(当時の日本人が)実話だと受けとったことこそがじつはデマであり、そのデマによって動いてしまった、とすることができるからである。

 力関係からいっても、多数派の側である当時の日本人には力があるわけだから、力にものを言わせることはありえるだろう。それにくわえて、人災や災害のさなかでは、被差別民への虐待が強まるとの説もある。この説を当てはめてみるとして、さらにその他の証言もふまえると、(確実であるとはいえないまでも)朝鮮人を虐殺したことのがい然性はそれほど低くはない。少なくとも、あってもおかしくはない話だ。

 じっさいのところは(自分には)はっきりとは分からないから、こうであると断定することはできそうにはない。そのうえで、大震災のときに一部の日本人が朝鮮人の人たちを虐殺してしまったのであれば、それは悪いことであるといえる。その悪いことは、認めるのがむずかしいのがあるのだとしても、だからといって否認してしまうのはどうなのだろうか。

 悪いことをしてしまったさいに、それを認めるのが難しいのは、人間の特性によるものでもある。あとになって、やったことを合理化または正当化してしまうのである。そうして正当化してしまうのは、ほめられたことではない。なにか罪となることをしてしまったさいに、それを中和化してしまうのは、一つの心理的な傾向である。こうしたことをしないようであるのがのぞましい。そうした中和化の技術を用いるのは、無実の他者に危害を加えたおそれがあることにたいしてはそうとうに慎重にならないといけないだろう。