正確な実数ではないかもしれないが、おおむね合っていることもありえそうだ(嘘の数というほどではない)

 哀悼文を出すのをやめる。これは関東大震災に関わることがらだ。大震災では、デマがおきて多くの朝鮮人の人たちが虐殺された。その数は六千人にものぼるとして、碑に刻まれている。こうした犠牲者にたいして、これまでの都知事であった石原慎太郎氏や猪瀬直樹氏や舛添要一氏は、哀悼文を送付していた。小池百合子都知事も、去年までは出していたという。しかし今年に入って、それをやめることを決めたそうだ。

 哀悼文を出すのは、形として目に見えるものなので分かりやすい。しかしたんに哀悼の気持ちをもつとするだけでは、内面のことなので分かりづらい。そのうえ、大震災で犠牲になったすべての人にたいしてとしてしまうと、デマによって虐殺されたとされる朝鮮人の特殊さがぼやかされてしまう。

 ひとつ要点となるのは、デマによって朝鮮人の人たちが虐殺されたのは、かなり確からしいことにあるだろう。その被害者の数がどうなのかが、多いのから少ないのまで定まっていないでいる。たとえ犠牲者の数が一人であっても、また六千人であっても、デマによって虐殺されたことは同じだといえる。そうであるとすれば、その負の経験から教訓を引き出すことに価値があるのではないだろうか。かんたんにデマの情報にそそのかされて、軽信で動いてしまうのは危ない、といった教訓だ。二度とそうした暴力をふるうのを行なってはならない(とりわけ弱者や異邦者にたいして)。

 大震災における、朝鮮人の虐殺については、事実がどうだったのかも大事だろうけど、それとは別に、ひとつの包括的な総体としてあつかうべきなのではないかという気がする。その総体を見てみるさいには、低温で熱してゆくようにして、なるべく時間をかけて実相を浮かび上がらせるのがのぞましい。小池都知事は、(死傷者数を含めて)この虐殺のありように疑問をもっているのだとすれば、都で検証チームを立ち上げて、検証してゆくのがよいのではないか。色々な意見を聞き入れて、暫定的にではあるにせよ、ひとまずの結論を出すところまでもってゆくのがあればよさそうだ。

 意見を見てゆくにさいしては、二つの視点がとれる。どのように発言(証言)が導かれたのかと、それが正しそうなのかどうかである。これらをごちゃ混ぜにしてしまうと、おかしな具合になりかねない。いちおう切り分けておくのがよさそうだ。発言の出元が疑わしいのは、発言が正しいかどうかとは直接には関わりがない。発言の出元を疑うのは、発言者を疑っているのであり、発言者に負の属性を当てはめている。属性で見るのは、現実を見るのと同じではない。

 大震災において、デマによって朝鮮人が虐殺されたことなどはなかった、とする意見も中にはあるだろう。この意見がほんとうなのであれば、(この件については)日本人の名誉が傷つくこともないし、名誉の回復みたいなことが見こめる。こうした見こみを頭から否定するわけではないが、ひとつ欠点があることはたしかだろう。それは、否定的な契機が抹消されたり、隠ぺいされたりしてしまうおそれがあることだ。そうして自分たちにとって都合の悪いことを抹消したり隠ぺいしたりしてしまうとして、それによって築かれた潔白さにはたしてどれほどの意味があるのだろう。その点が若干の疑問である。