法治によるのでないと、適材を適所にあてるのはできづらそうである(人治になってしまうと、不適材を不適所にあてることになりかねない)

 国民が、税金をおさめる気をなくす。そのようになってしまうのであればまずい。ただでさえ、国が国民からとる税金は強制によるのだから、しっかりとした運用や運営がなされていないようであれば、不満がおこっても当然だろう。

 政権のスキャンダルにおいて、証拠となる資料を廃棄してしまったり、隠してしまったりした。そうして真相を明らかにするのを拒むことで、政権は命びろいしたところがある。ほんらいであれば、(問題意識をもっている)国民には真相を知る権利があり、政権にはそれを告げ知らせる義務がある。その義務をきちんと果たしたのかといえば、そうとは言えないだろう。

 直接に真相を明らかにすることからは逃れられたのだとしても、それとはまたちがった間接による視点を持つことができる。ことわざでいう、頭かくして尻かくさず、といったようになるわけである。もしほんとうに不正をやっていないのであれば、真相を明らかにするのを渋るのはおかしいし、非協力になるのは理にかなっているとは見なしづらい。どんどん協力して、さっさと身の潔白を晴らすほうが、どちらかといえば理にかなっているだろう。

 スキャンダルにおいて、証拠の隠ぺいに加担をしてしまったとされるのが、財務省の官僚の人だった。その人が、国税庁の長官に任命された。そのご、就任のさいの会見を開いていないのがあり、それはおかしいとの声が上がっている。せめて、就任のさいの会見くらいは通例どおりに開ける人でないと、示しがつきづらい。国民の納税意識を低くしてしまうのがあるから、これはちょっと国の人事において、不適材不適所だといった面があるようだ。

 なぜこうしたそぐわない任命がされてしまったのかというと、その原因の一つには、民主主義の現実と理想がかかわっているかもしれない。現実においては、多数派の代表がいまの政権であり、その政権の(直接または間接の)命令を受けて、財務省の官僚の人は動いた。ここには多数派の代表である政権の意思がたぶんに反映されている。国家としての公のありかただ。

 そうしたありかたとは別に、ほんらい民主主義においては、理想としては、多数派の利益ではなく、公共の利益をどうするのかがふまえられていないとならない。国家の公ではなく、人びととしての公だ。そうした公共の利益の観点からすれば、政権のスキャンダルにおいて、嘘をついたり証拠を隠ぺい(または廃棄)したりしてはいけなかったのがある。

 多数派の代表であるいまの政権には、力があることはまちがいがない。しかしその力(数の力)は、少しでも気を許すとたちまちにしてごう慢におちいるおそれがある。力のおごりといったものである。そこについて、はたの者が十分に警戒の意識をもつのは、意義があることではありそうだ。それだけよけいに労力がかかるのはあるだろうけど。

 力と正義を結びつけてしまうのではなく、それを別々なものとして見るのがあると、一元論にはまりこんでしまうのを少しは防げそうである。一元論になってしまうと、政権と一体化しがちになるが、そうではなく、対象化することがあるのがのぞましい。一体化して癒着するのではなく、対象化して距離感をもつことがあったほうがよいだろう。