よっぽど公平な中身でもないかぎり、ゴールポストは合致しなさそうだ

 ゴールポストが動く。これをムービング・ゴールポストとも言うそうだ。ここで言うゴールポストとは、日本と韓国とのあいだの慰安婦問題についての合意をさしている。合意の到達点が動いてしまってはまずい。こうしたなかで、自由民主党安倍晋三首相は、ゴールポストは動かない、との見かたを述べていた。

 はたして、日本の側は合意の到達点であるゴールポストを動かしてはいないにしても、韓国の側はそれをしているのだろうか。そこがちょっと疑問だなという気がする。日本と韓国とのあいだに共通のゴールポストがあるとの前提があるわけだけど、それ自体が錯覚なのではないだろうか。そのようなものはないわけである。

 もし、ゴールポストが日本と韓国にとって等距離にあたるようなところにあれば、どちらの労力も同じくらいになる。そうして等距離の場所にゴールポストが置かれているのであれば、ことさらに日本が韓国にたいして合意を守れと主張することはおきづらいのではないか。うら返せば、どちらかといえば日本の側に近い場所にゴールポストが置かれているために、日本が韓国にたいして合意を守れと主張することがおきる。そうした見かたもとれるかもしれない。

 日本には日本のゴールポストがある。そのいっぽうで、韓国には韓国のまた別のゴールポストがある。韓国は、自分たちのゴールポストにどんどん球を蹴りこんでいっている。そうしてとらえることができそうだ。

 安倍首相が言うように、ゴールポストは動かないとのとらえ方は、あくまでも日本の側のそれであるにすぎない。なので、日本の側のゴールポストが動かないのだとしても、韓国の側のそれとはまた別の話となってくる。

 こうしたゴールポストの不一致は、ある点ではしかたがないことであるかもしれない。日本と韓国とはおたがいに主権国家として別なものとしてある。そのため、それぞれの主権国家によるゴールポストの持ち方が許されてしまう。そうしたありかたを乗りこえるには、かなりの困難があることはいなめない。日本と韓国とのあいだには(正と反といったような)矛盾があるといえ、その矛盾によってそれぞれのゴールポストができてしまうことになる。

 たとえ一時的、いやもっといえば一瞬のことであるにせよ、日本と韓国とのあいだで意見が一致したのは、意義があることかもしれない。それは日本と韓国とのあいだに温かい義理ができあがったことをあらわす。そうした温かい義理は、ほんの一瞬ですぐさま冷めてしまう。芯からの温まりではなく、ほんの表面が熱せられただけだから、すみやかに冷たい義理となる。内からの本音による心情が前に出てくることになる。

 ゴールポストとは、そこに到達するべきだといった当為(ゾルレン)であると見なせる。これが日本と韓国とでおたがいに利益となるような一つのものであればそれに越したことはない。しかしながら、日本には日本の利益があり、韓国には韓国の利益がある、となってしまうのもたしかである。なすべきものである当為とは別に、現実から見ると、もっと別の強い要求が内なる心理から生じてくる。そうしたことをふまえると、なすべきものである当為のゴールポストは、絶対化されず、相対化されてしまうのはいなめない。

 過去にはペーソスをもち、未来にはユーモアをもつ。作家の星新一氏は、そのようなことを言っているそうだ。問題が問題なだけに、未来にたいしてユーモアをもつのは難しいことではあるかもしれない。どうしても深刻にならざるをえないところがある。そのうえで、未来志向による両国の関わりを目ざすのであれば、そこにゆとりとしてであるようないくばくかのユーモアの切り口があってもよさそうだ。ユーモアと言ってしまうと語弊があるのをまぬがれそうにはないが、二者関係においてはどうしても緊張が高まりすぎてしまうのがあるから、そこを緩和することもいりそうである。

 小さなことからこつこつと、と言われるように、段階をふんで実行が易しいことからやってゆくのもよさそうである。大目標があるとして、それは実行が難しいのだとすれば、小さい目標に細かく分けてしまう。そのようにせずに、いきなり大目標を実行せよとしてしまうと、挫折するおそれが高い。それはやり方がまずいのが原因となっているとも言えるだろう。

 終極目的(テロス)をどこに置くのかといった見かたもとれる。それを、たとえば両国の友好に置くことができる。さらに具体的には、慰安婦像や徴用工像をあまりたくさん設置しないでもらう(できるだけなくしてもらう)ことを終極の目的とすることもできる。そのようにするのにおいては、目的さえ達することができればよいのだから、手段はとくに限られない。焦ることもない。かならずしも合意やゴールポストにこだわらなくてもよいわけだ。合意によって圧力をかけるのもよいだろうけど、それは目的を達するために本当に有効なのかをそのつど見てゆくことがいる。