どちらの側にも非があるとしてしまうと、価値についてをとり落としてしまうのがありそうだ

 どちらにも非がある。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、ヴァージニア州でおきたもめごとについて、そのように述べたという。このもめごとは、極右団体のデモにたいして、それの止めに入った対抗派とのあいだでおきたものである。これにより、女性が 1人死亡し、19人のけが人が出たと報じられている。

 トランプ大統領は、どちらにも非があり、どちらにも責任があると述べたそうだ。このように述べてしまうと、ことわざでいうあぶ蜂とらずみたいになってしまう。もめごとをおさめることはのぞめそうにはない。

 たしかに、ぶつかり合いがおきてしまったのについては、どちらにも非があるのかもしれない。それは、どちらもが結果として同じようなありかたになってしまったと察せられる(あくまでも想像にすぎないが)。そのあり方とは、強い自我によるものである。この強い自我とは、我とそれといった姿勢だ。これは、哲学者のマルティン・ブーバーが説いたものであるそうだ。

 極右勢力は、自分たちである我から見て、その右翼的思想にそぐわない人たちを、それとして見なす。いっぽう、対抗派において、おそらくではあるが、自分たちである我から見て、その左翼的思想にそぐわない極右勢力の人たちを、それとして見なした。こうしたお互いのありかたによって、不幸にもぶつかり合いがおきてしまったと推しはかれる。

 こうしたぶつかり合いの表向きのありかたを見れば、たしかにどちらにも非があると言えないでもないかもしれない。しかしそれだけで終わらせてしまってはいけない、との切実な声が上がってきているのを無視することはできそうにはないのもたしかである。

 ぶつかり合いにおいては、強い自我による、我とそれのありかたがとられてしまったのがありえる。それはそれとして、そもそもどうあるべきなのかといった視点をあらためて見てゆくことがいりそうだ。というのも、強い自我による、我とそれのありかたでは、白人であるなら白人の、単一のものを至上とする主義が成り立ちやすいのはいなめない。

 そうした単一のものを至上とする主義でないようにするためには、一つには、弱い自我による、我と汝のありかたをとることがいりそうだ。このありかたをとるようにすることができれば、自民族中心主義(エスノセントリズム)を脱することに多少はつながりやすい。我と汝をともに尊重することができるのだとすれば、雑種として、いろいろな人たちがともに混ざり合いながら、調和してやってゆくことがのぞめる。人間はもともと直立猿人からきているのは同じであり、そこからすると、連帯性(兄弟性)がとれないでもないだろう。こうしたことは、建て前であり、理想にすぎないのはあるだろうけど、そうしたものがないと無秩序をまねく危なさもありそうだ。

 トランプ大統領は、強い自我による指導者としてやっていっているのがある。そういう主体的な面があるために、なかなかそれを曲げることができづらい。いわば、自分で自分を仕立て上げているようなところがあるのだろう。もしそうしたありかたを曲げてしまえば、トランプがトランプでなくならざるをえない。逆にいえば、トランプによるトランプというくびきのようなものを、手放すことができるかもしれないのに、その機会を自分でみすみす逃してしまっている、ともいえるかもしれない。