原発をどうするのかと、現政権が保たれるのがよいのかは、少しだけ似ているところがあるような気がした

 原子力発電所の是非を問う。そうした問いが有効性をもつのは、原発を導入するかしないかのはじめにおける分かれ目のときにかぎられる。導入されてからずいぶん経ってしまった今となっては、原発は是と見なされるよりほかはない。原発のことについて対応する政権の要職者が、このようなことを述べていたようである。

 こうした原発の是非のありかたを問うのは、導入からずいぶん経ってしまった今となっても、いやむしろそれだからこそ有効性をもつところがありそうだ。その点については、固定した見かたがとられないようにすることができる。肯定性である確証をもつだけではなく、否定性による反証によって見ることもできるだろう。

 原発についての賛成か反対かといった問題は、一強他弱といわれる現政権がこのまま維持され続けるのがよいかそれとも退陣(交代)したほうがよいのかといった問題とちょっとだけ似ている。この二つの問題については、維持するのがよいとも見ることができるし、その逆にやめてしまったほうがよいと見ることもできる。大きくいえばそのようにできそうだ。

 それ以上の有益な代替案があまり見あたらないとの点においては、原発と一強他弱の現政権とは相通じるところがある。だからこのまま維持されるのがよいとすることもできる。負の面はあるけど、そこには目をつぶるよりない。これは今のありかたを維持するのが妥当だとするありかただ。

 今のありかたについて、妥当とするのではなく、不当と見なすこともできる。原発でいえば、算定される費用が低く見積もられているのを、破局的な事故のおそれをふまえれば、その費用がもっとはね上がることになる。トイレのないマンションといわれるのがあるように、核のごみをどうするのかの解決がむずかしいのも見のがせない。こうしたやっかいなことがらは、たんに(正しい知識の不足からくる誤りである)欠如モデルをあてはめてそれでこと足れりとするのはできづらいものだろう。

 一強他弱による現政権についてみても、そこには社会関係(パブリック・リレーションズ)のまずさが見うけられるような気がしてならない。たとえば何かの不祥事がおきたとして、それをたんに印象操作だとか、偏向な伝えかただとか、でっち上げだとかして片づけてしまうのは適切とは言いがたい。そうしたことで片づけられたとはできないのはたしかである。支持している人にとっては、十分に片づけられたことにはなるだろうけど。

 なんの悪いこともしでかしてはいないのに、濡れ衣を着せられているだけなのだとしたら、はなはだ心外な気がするのは自然である。しかしそのさい、社会関係である PR の文脈をおろそかにするのは賢明ではない。そうした PR の文脈がからんできてしまうのを想定しておくのが賢明である。なぜなら、あらゆるものは誤解されるからである。誤解への対処をまちがうと、けっきょく損をすることになる。そうした現実はありえるだろう。

 もし個人や少数者をよってたかって叩いてしまうのであれば、弱者をしいたげているのであり、これを独力で何とかしようとすることは困難だ。できるかぎり弱者や少数者をおもんばかるようにして、歩み寄れるようであるのがのぞましい。そのいっぽうで、権力者は強者だといえるので、PR の文脈において説明の責任がある。そうした責任にくわえて、協力をすることもいる。そうした説明や協力がなされないと、一方的なありかたにならざるをえない。

 原発の問題と、一強他弱による現政権とを、同じようにして並べて話してしまうのは、雑なところがあるかもしれない。そのうえで、この二つについては、ほかにめぼしい代替案がないとして、維持されることの妥当性がそれなりに高いのだとしても、だからといって完ぺきに基礎づけられるものでもないのがありえる。いろいろな条件のもとにおいて、いろいろな是非の見かたをとることができるのがあるだろうから、肯定と否定の両面でとらえたほうがよいのかもしれない。