一問一答式のようには答えが出てこないのであれば、急いで唯一の総論(結論)を出さなくてもよいのもあるだろう

 日本の戦前や戦時中について、あたかも自分で見てきたようなことは語れない。当たり前ではあるが、そうした面があると少しだけ省みられる。いっぽうで、じっさいに見たり経験したりした人であるのなら、語ることができるのはたしかである。しかしそのさいに、自分で見たり経験したりしたことは、何らかの器みたいなものに移すことがいる。経験を入れる容器のようなものである。

 戦前や戦時中に日本がどうであったのかだとか、または日本の憲法をどうするだとかについては、自分で自分を認めるようなところがある。これは自己言及がからむので、やっかいな作業である。芸術では、こうした性質のものは、モダニズムの芸術であると言われているそうだ。一人称の私についての主題をあつかったものだ。たとえば文学ではフランツ・カフカの小説などがそれにあたるという。写実主義のようには受けとることができづらいものとなっている。

 学校での試験のように、一問一答式で、問いと答えが一対一の対応をしてはいない。そうしたものであるとすると、その点に注意するのがあってもよさそうだ。一つの答えではなく、多くの答えが可能であるといったふうでありえる。

 鏡のように、唯一にして絶対の答えをうつし出すようにはなっていない。そのようなあり方をふまえて見ることができる。どういった文脈をとるかによって、意味づけが変わってくることになる。それがあるので、一つの文脈にだけよるのではなく、いくつもそれを持ち替えるようにできれば、固定された見かたにおちいらないですむ。

 なにも、一つの日本であるのではなくて、いくつもの日本があってもよい。そうした見かたもとれるという。いろいろな過去の負の痕跡が日本だけではなく世界(東南アジアなど)の各所にあることをふまえれば、そうした痕跡による部分について、全体と照らし合わせてみる。たとえ小さな痕跡だとしても軽んじないようにする。それによって、いろいろと整合するいくつもの見かたをとることができそうだ。そのさい、全体と部分とが不整合になることについて気をつける(それを避けるようにする)。

 主体としての日本と、客体としての日本とがありえるとすると、主体による見かただけが正しいとは限られそうにはない。盲点や、見落としや、未知なるありようもありえるだろう。主体が善で、客体が悪であるとしてしまうと、客体に悪を押しつけてしまう。主体にもまた非が少なからずあるとするようにできれば、一つだけではなくいくつもの見かたをとりやすい。

 昼の視点と夜の視点といったものもありえる。この 2つがあるとすれば、昼の合理による視点だけで割り切ることはできそうにはない。もしそのようにして割り切ってしまうと、夜の不合理な視点が隠ぺいされてしまう。夜の視点とは、廃墟であるようなものである。暴力のまん延によって、すべてが廃墟と化してしまったような荒廃したありようだ。たとえ昼のさなかの繁栄を謳歌しているのだとしても、つねにわれわれは過去の廃墟である夜の視線にひそかにさらされているのもありえる。昼の世界に向けられた、夜の反対世界からの視線だろう。そうした視線やまなざしを十分にくみとることがたまにはあってもよさそうである。