矮小化してしまうよりかは、全否定するほうがよいような気が個人的にはする(戦争のあやまちについては)

 全否定は過去を見あやまる。政治学者の三浦瑠麗氏は、東京新聞記事において、このように述べていた。太平洋戦争において、極端に日本人の人権が損なわれたのは、2年間のあいだにすぎない。せいぜい、1943年から 45年の間だけだという。

 そのように 2年間の間だけにかぎってしまうのは、ちょっとどうなのだろうという気がする。全否定が極端なのだとしても、かといって矮小化するのもまずいだろう。戦前や戦時中に日本が自国民や他国の人へおよぼした悪い行ないは、十分に一般化するに足りることだと見なせる。これを矮小化したり限定化したりするのには個人的にはあまり賛同できない。

 記事の中で述べられている三浦氏の意見については、正直いって、矛盾がたくさんあるのではないかという気がする。ちょっと偉そうなことを言ってしまうけど、できるなら、矛盾は一つだけにしぼってほしいところである。いくつも矛盾があると、いちいち指摘するのに労力や時間がかかってしまう。とはいえ、こうしたことは、たんに受けとるほうが勝手に見いだしていることにすぎないとも言えるものではある。

 護憲派改憲派も、ともに志が低かったり、小さかったりする。そうしたことがあるのだとしても、だから駄目だとするのには疑問が生じるのもたしかだ。かりに志が低いのだとしても、いったいそれの何がいけないのだろうか。逆にいえば、志が高かったとしても、それによってめちゃくちゃなことをしでかしてしまうよりはずっとましだろう。志が高いのをもってよしとするのは、日本陽明学の発想のような気がする。

 陽明学については、くわしくは知らないから、とらえ方において的を外しているおそれがある。そのうえで、こうした日本陽明学からの発想は、どちらかといえば、車でいえばアクセルを踏むようなありかただといえる。そうして加速してしまうのではなく、それに待ったをかけるブレーキの視点も欠かせない。

 ブレーキからの視点がいるのについては、一つには、今の日本はそれほど民主主義が成熟しているとは言えないし、人権もきちんと保障されているとは言えないような気がするからだ。民主主義については、成熟ではなくむしろ退廃しているとすら言えるふしがある。人権について見てみても、どうもそれを保障するのに手抜きや手ぬかりがされてしまっているように見うけられる。みなに、生きるうえで基本となる自由の幅が、平等かつ十分に与えられているとは見なしづらい。

 日本の警察は優秀で、抑制がきいているともいうけど、これについてもちょっとうなずきがたい。というのも、ほんとうに抑制がしっかりときいているのであれば、警察は容疑者を逮捕することができないのではないだろうか(現行犯を除いて)。容疑者というのは、疑いをかけられているわけだから、ほんとうに抑制をきかせるのであれば、そうした疑いをもってはならないものであるだろう。疑うのは、有罪推定の前提に立ってしまっているからだ。これはかなり極端な話ではあるわけだけど。