たんなる偽ニュースならとるに足りないけど、本物の疑獄なのであれば、そこだけを外科的に切除はできづらいおそれがある

 政権の支持率が高く保たれてきていた。それをかりに健康なありようだと見ることができる。そうした健康なありようが損なわれてしまうのだと、病気におちいったことをあらわす。これは比喩として言っているつもりなので、ほんとうに健康であったり病気であったりするわけではない。

 政権への支持率が高くて、不支持率が低いのであれば、健康が保たれていると言ってよい。しかしそれが一転して、支持率が低くなり、不支持率が高くなるのであれば、病気におちいったと見ることができる。病気と言ってしまうといささか不謹慎ではある。そのうえで、そこの判定については、有権者の価値判断や倫理や道徳による見かたがかかわってくる。そのいかんによって線引きは変わってくるだろう。

 たとえば、政権の醜聞として、疑獄のようになってしまうようであれば、火の手が上がってしまったことになる。そうして火の手が上がってしまうまえに、いくつかのぼやみたいな前段階がありえる。その前段階でしかるべき対処ができていれば、のちに大きな火の手にならずにすむ。そうしたことが言えるのではないか。これをうら返せば、前段階としていくつかのぼやを放置してしまったがために、そのぼやが積み重なることによって、ひいては大きな火の手となってしまう。

 まだ前段階である小さい火がぼやなわけだけど、これは東洋医学では未病と言われるものにあたりそうだ。未病とは予兆のようなものである。その予兆をないがしろにせずにいちいち対処するのは一見すると面倒ではあるが、あとになってみれば楽である。これを見すごしてしまうことによって、じっさいの病気になってしまう危険さが大きくなる。

 人は色々な事情をかかえているわけだから、かりに前兆や予兆を見落としたとしても、とりたてて何か非があるわけではない。誰しもできれば健康でありたいものであり、健康を損ねたい人がいるとは見なしづらい。そのうえで、対処の楽さといった点に立てば、健康を少し損ねてしまっているくらいのところで手を打てれば、労力をそれほどかけないですむ。

 政権への支持率が高く、不支持率が低いのは、健康なありようであるといえる。その健康であるときに、ひそかに病気の種がまかれてしまう。そうした見かたをとることができそうだ。その種が芽を出して木になってしまうのを避けるためには、芽が出た段階でそれを認知して摘んでしまうことがいる。ひとたびしっかりとした木にまで成長してしまってからそれを切り倒そうとするのだと、下手をすると倒れた木の下敷きになってしまいかねない。そうした危うさがあるのがありえる。