けんか好きなボスの猫

 猫がたくさんいる島の動画があった。その島にはボスとなる猫がいるようである。ボスの猫は、しきりにほかの猫にけんかを売っていた。好戦的である。そうした一面のほかに、たとえば母子の猫にはあまり手を出さなかったり、子猫には教育的な指導でとどめたりしていた。また、そのボス猫は飼い猫でもあるようで、飼われている家の中ではふつうの飼い猫としてすごしていた。

 動画の中のボス猫について、そんなにしきりにほかの猫へけんかを売らなくてもよさそうなものだという気がした。そうしてけんかを売ってゆくことが自分の存在理由(レーゾン・デートル)だと思っているのだろうか。それはわからないが、見さかいなくどんな猫へも戦いを挑むのではないようである。そこは動物としての本能がはたらいているようだ。攻撃性において、解発(リリース)だけでなく抑止(コントロール)がきいている。それによって、たとえば母子の猫だったり子猫だったりにはあまり手を出すことがない。

 猫がたくさんいる島なので、密集している度合いが高いから、うっぷんがたまる。そうしたことがありえるので、そのうっぷんを晴らすために、けんかをしかける役みたいなのがいるのかもしれない。その役がいることによって、ガス抜きみたいなのが行なわれる。

 ひるがえって、人間の集団におけるボスには、猫の場合と同じように攻撃性をもっていることが認められる。精神分析学者の岸田秀氏の唯幻論をふまえてみると、人間は本能が壊れていると言われている。なので、攻撃性について抑止がかかりづらいところがある。解発ばかりが行きすぎてしまう。そうしたおそれがある。

 いくら好戦的であるとはいえ、ボス猫が他の猫をけしかけて、何か戦争みたいなことをするわけではない。武器や武力ももっていないだろう。しかし人間は、一つの(幻想の)集団を形づくり、それらがぶつかり合うような戦争を行ってしまうことがありえる。また、武器を製造して武力をもつことになる。より危険な武器を製造するほどに、それを使う理由もまたつくり上げてしまう。

 人間は思いこみである観念をもとにして、動いていってしまうところがある。これは表象(イメージ)であるので、必ずしも実体であるとはいえそうにない。イデオロギーによって動かされる。そうしたところがあるわけだが、一つの観念ができるだけ固定化されないようにして、柔軟さを保てればよさそうだ。そうしてずれてゆくことができればよい。そして、なるべく一つではなく複数の物語がふまえられることがあればのぞましい。複数性があることによって相対化できやすいからである。