攻撃誘発性があるのだとしても、それが(攻撃への)口実にされたり正当化されたりしてよいものではないだろう

 障害者の施設で、1年ほど前に事件がおきた。その施設はやまゆり園といい、19人の障害者の方が(何の落ち度もないにもかかわらず)おしくも亡くなってしまった。この 19人のそれぞれの方には、特有の個性があったんだなあと感じ入った。新聞社や NHK によって、人となりみたいなのが特集されていたのを見たことによる。

 それぞれの人間には小さな物語といったものがある。そうした物語はかけがえがないものであり、とても貴重なものであると言えそうだ。かりに何かの障害を負っているのだとしても、それは当人の責任であるとは言えそうにない。一人の人間が手段として見なされるのではなく、目的として尊重されることがあればよい。そうした目的の国が築かれることが理想であるだろう。

 人間には一人ひとりに自己保存欲があり、それが満たされることがあるのがのぞましい。これが満たされないとなれば、社会といったものが成り立ちづらい。死の恐怖が乗りこえられて、すべての成員の生命欲や物欲(基本的必要)がかなえられることがいる。そうした点がないがしろにされてしまうのはまずい。もしないがしろになっているのであれば、抵抗して抗議する権利があるくらいである。こうした権利は、天賦人権であるから、属性で分けてしまうのは不適当だ。何かと引きかえにといったふうに見なくてもよいものだろう。

 気をつけることがいるのは、啓蒙の弁証法があげられそうだ。啓蒙が野蛮に転化してしまうといったものである。こうなってしまわないようにすることがいる。白か黒かの単純弁証法であったり、全体を同一にしてしまう肯定弁証法だったりするのでないのがのぞましい。そのようにできたほうが、一つの角度や切り口だけによって見ないですむ。

 何かを負の印づけ(スティグマ)として見なしたり、低い価値づけをしたりするのだと、優と劣のようにして、二分化してしまっている。これは純粋な見かたではないし、対象化してしまっている。仕立てによる代理表現である。そうではなく、仏教の禅でいう父母未生以前(の本来の面目)みたいにして、一でありながら多(多様性)であることもできなくはない。そうした、一即多のような見かたをたまには試みとしてとってみることもできそうだ。