立場のちがいが理であるとすると、それを乗り越えるのは気であると言えそうだ(理による区別は、差別につながりかねないところがある)

 エレベーターの中での気まずい沈黙がある。自由民主党安倍晋三首相と、たまたまエレベーターの中で二人きりになった人(議員)がいた。そのさい、その乗り合わせたのが首相と立場をまったく異にする人だったため、たがいに言葉を交わし合うことはなかった。

 このエレベーターの中での例は、一つの逸話にすぎないから、それをもってして一般化してしまうことはできそうにない。とはいえ、この話のほかの情報もあり、それをふくめて見ることができる。

 国会の中では、政治家どうしが激しくやり合う。しかしひとたびそこから外に出てしまえば、そこまで対立し合うことはない。過去の首相でいうと、福田康夫氏や、小泉純一郎氏なんかに、そうしたあり方がかいま見られたそうだ。立場を異にする者にも、少しくらいは声をかけてくれる。交感し合うわけである。

 あくまでも論戦の場でのぶつかり合いはそれとして、そうした場から一歩外に出れば、そこでぶつかり合った人にも、ほんの少しくらいの社交性はもつ。この社交性は、理性的であると言ってもよいだろう。じっくりと話し合うわけではないにせよ、表面的には、大人な態度を見せる。

 安倍首相においては、そうしたあり方をとらないところがありそうだ。そこに一貫性があるともいえ、また一方では硬直さやかたくなさがあるとも言えそうである。立場を同じくする人たちにはとても社交的であるが、立場を異にする人たちには非社交的なのである。その分け方がわりにはっきりとしている。

 このように、立場を同じくする人と、そうでない人とのあいだで、対応をはっきりと分けるのは、役割を実体視しているところから来ていそうだ。耳に快くはないような批判を投げかけるのは一つの立場にすぎないものとも言えるが、これを実体視することによって、固定化される。こうして固定化されてしまうと、ほんらい一つの役割であるにすぎないことが忘れ去られる。摩擦が大きくならざるをえない。

 自分のいだく理をよしとするのがあるわけだが、そこに確証を持ちすぎてしまうのはまずい。確証とは肯定であり、肯定だけをもってして意思決定をするのは誤りの危険がつきまとう。行きすぎた合理性につながる。それは効率さと言ってもよく、過度の効率さは一つの世界観の押しつけに行きつく危うさがおきざるをえない。質がないがしろにされがちになる。

 人間にはだれしも合理性に限界をもつのがある。なので、他から批判が投げ交わされることによって、合理性をずらしてゆかなければならない。そうしてずらしてゆくのはめんどうではあるが、それを拒んでしまうようであれば、他からの批判を頭ごなしに封殺することにつながる。自分がいだく確証によって肯定されるだけとなり、全体化に結びつく。そうした危うさがあるだろう。

 指導者や代表者は、たんなる役割の一つにすぎないから、それを実体視してしまうのだと神格化につながりかねない。これは権威によっているあり方である。権威をもった理想の父へ、自分の上位自我が投射されるのだという。父と子の上下関係となる。こうしたあり方では、必ずしも現実を見ることにはつながりそうにない。権威にすがることによって安心を得ようとするのには待ったをかけることがいる。できるだけ、指導者や代表者に、自分の上位自我を投射してしまわないようにすることができればよさそうだ。そうであれば、裏切られて大きく失望したり幻滅したりすることもおきづらい。