なにか具体的な、スパイ活動をじっさいに行っている状況証拠でもなければ、スパイであることを確実であると見なすのにはうなずきがたい(可能性はゼロではないだろうけど)

 スパイであるのにちがいない。そうではないのであれば、そうではないことを証すことがいる。これは悪魔の証明にあたる。スパイではないことを証すことはきわめて難しい。生産的であるとも言いがたい。

 スパイであるかどうかを疑うのであれば、なにか具体的なスパイ活動を行っている手がかりがあればそれをすればよい。そうした手がかりがとくに見あたらないのであれば、ちょっと突飛なところがあるのではないか。

 嘘をついていたから、スパイであるのにちがいない。そのように見なすのであれば、ちょっと論拠として弱いところがある。嘘とはいっても、説明が二転三転したくらいであれば、まちがいなく悪意があったとは見なしづらい。非があることはたしかであるが、一般論でいうと、人間は不完全なものである。記憶ちがいがあるとしてもとりたてておかしくはない。現に要職に就いているのでもないのであれば、国家の命運を即刻に左右することにはつながらないだろう。

 (話は変わって)元大阪市長であった橋下徹氏は、かつて自分の出自をとり沙汰された。そのとりあげられ方はまったくの不当なものであった。そうであるにもかかわらず、人権派の一部からはとくに擁護はなく、むしろそのとり沙汰に加担する人もいた。きつく言ってしまえば、人権派とはいっても、しょせんはそんなものであるにすぎない。人権派とひとくくりにして擬人化して見てしまうのはまずいが、この批判については受け入れることがいるかもしれない。

 橋下氏にはちょっと気の毒ではあるが、橋下氏のかつての出自のとりあげられ方を基準にして、それによってものを断じてしまうのはどうなのだろうか。個人によるかつての体験が不当なものであったのだとしても、そこを基準にしてしまうと、見かたがややずれてしまいかねない。ようは、泣き寝入りさせられるのではなくて、不当なとりあつかいであったことを発言してゆければよいのではないか。その発言は貴重なものである。それだけでなく、金銭などによる、具体的な権利の回復もなければならないだろうけど。

 不当なあつかいだったということは、本来はこうであるべきだったという正当なあり方があるはずだから、そのこうであるべきだったとする正当なあり方を基準にするのがのぞましい。そうではなく、(いくら本当のことであるとはいえ)じっさいにこうだったのを基準にしてしまうと、不当さを肯定することになりかねない。そこが危うそうだ。