責任を持ち出すのであれば、信用しない側だけではなく、信用されない側にもそれがあることがありえる(信用しない側にすべての責任を帰することはできそうにない)

 何も関与していない。非があるようなことを自分はしていない。そのように本人が言っているのにたいして、受けとるほうが信用できないと見なすのは、無責任な評価になる。テレビ番組のなかで、八代英輝弁護士はそのように語っていたという。

 八代弁護士のこの発言については、素直にはうなずきがたい。とはいえ、まったく間違っているとも言えそうにはない。時と場合によって変わってきてしまうだろう。

 本人がどのように言っているのかだけではなくて、まわりの文脈や状況証拠なんかが関わってくる。とりまいているまわりの文脈や状況証拠が、本人が言ったことと明らかに食い違っているのであれば、どちらに重みをもって見るのがふさわしいかは定かとは言えそうにはない。

 かりに、本人が言っていることを単純であるとする。そこへ文脈や状況証拠が加わることで、複雑になってくる。複雑なものというのは、いろいろな判断をゆるす。真相を解明しづらい。そうであるために、複雑になっているのを、はっきりと単純なものとして割り切りってしまいたくなる。そこに危険さがあるのもいなめない。

 本人がどのように言っているのかを、情報の分子であるとする。それをとりまいているまわりの文脈や状況証拠は、情報の分母にあたりそうだ。この分子と分母のどちらに焦点をあわせるのかは、一概に決められそうにはない。どちらに重みを持たせることもできる。どちらについても、質だけで割り切ることはできづらく、量によって見ることもいるだろう。

 単純なのであれば、判断がしやすい。しかし複雑なのであれば、判断するのにもやっかいさが生じる。ことわざで言う、頭隠して尻隠さずみたいなふうになっているのであれば、尻が出ているのをツッコまざるをえない。そのツッコミが間違いなく正しいとは限られないわけだけど。それにくわえて、二重基準(ダブル・スタンダード)にならないようにすることもいる。そうではあるのだが、この点については、たとえば弱者や一般人には無罪推定の原則で見ることがいるが、いっぽう権力者は強制力をもつ強者なので、あるていど有罪推定の前提で見るのが妥当だろう(権力チェックである)。そうした色々な視点が関わってくるところがある。

 本人が言っているのについて、それを信用できないとするのは、無責任な評価にあたるのだろうか。それについては、一つには、懐疑的ないしは批判的受容を持ち出すことができる。誰かが何かを言っているのがあるとして、それについて、それって本当なの?、と疑うことは基本として有益である。つねに疑ってゆくことがいるくらいである。

 言っていることについて、それを受けとるほうが信用できないとするのには、必ずしも無責任な評価にはあたらない。そのようにも見なせる。信用とは、何らかの主要な価値を共有していることといえる。そうした価値を共有できていないのだとすれば、言っていることを信用できないとしてもおかしくはない。

 発言した本人と、それを受け止める聞き手との、どちらの方に信用が成り立たない原因があるのかといえば、どちらか一方だけにあるとは言いがたい。信用できない原因は、送り手と受け手のどちらの側にもありえる。受け手が送り手を信用できないと評価するのには、それなりの理があると見なせる。その理は、価値のずれによるのがあるので、その価値のずれを何らかの手を打つことですり合わせられるようになればよさそうだ。